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カテゴリ:スリランカ民主社会主義共和国( 16 )


スリランカにいってみた- スリランカを巡る援助競争

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<写真:旧国会議事堂>
スリランカ政府がLTTEを殲滅してからほぼ一ヶ月。イラクやアフガニスタンなどを例に引き、紛争は武力で解決しないとの世間一般の認識にあえて抗い、話し合いによる和平路線を捨て、武力による解決を選んだのは2007年のことである。本格的な作戦は2008年になって始まり、2009年5月に遂にLTTEの首領プラバーカランを殺害し戦闘は終了、26年ぶりに和平を達成したのである。

この政策転換の背景は、今後研究が進められるだろうが、その重要な要因として挙げられるのは、スリランカに対するドナー環境の変化である。日本は戦後長きにわたってスリランカのトップドナーであった。日本の支援は、2008年はENベースで有償3.5億ドル、無償3,100万ドル、技術協力2,200万ドルの計3.8億ドルという規模である。この額はここ数年ずっと変わっていない。

ここに登場したのは中国である。中国による支援の情報は、公的な機関による発表がなされているわけでないため、以下の情報ソースは、両国の政府高官が会った際の共同声明や、新聞報道、Stockholm International Peace Research Instituteなどの分析を拾っているだけであり、情報の確度は多少落ちることは留意していただきたい。

中国は2007年、対スリランカ支援を10億ドルとし、支援額で日本を抜いた。10億ドルという額は前年比500%の増加である。スリランカのGDPは、270億ドル程度であるから巨額であるといってよい。援助は戦略的で、ラジャパクサ大統領の地元の町の港湾整備(3.6億ドル)、中国スリランカ友好文化センター(コロンボ)などの開発事業を内容としている。またハンバントタ(Hambantota)の新空港建設費(2011年開港予定)の85%は中国による支援である。他にも二本の高速道路の建設(建設費はそれぞれ4.5億ドル、6億ドルとも言われている)、発電所二基の建設(うち一つはNorichcholeにおける火力発電所、2020年には20ギガワット出力予定。火力発電所の支援額は7億ドル)などが支援のメニューに入っている。

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特に港湾整備からはシーレーン確保という中国のインド洋における海洋戦略が透けて見える。すでに中国はミャンマーのシットウェ(Sittwe)、バングラディシュのチッタゴン(Chittagong)、パキスタンのグワーダル(Gwadar)の港湾整備を支援している。英国海軍は1957年までスリランカ北東部の港湾都市トリンコマリーを利用しており、米国はインド洋上(インドネシアとアフリカ大陸のほぼ中間点にある)のディエゴ・ガルシアに基地を持っているなど、このあたりに拠点を持つことは海洋戦略上重要である。中国のスリランカにおける港湾整備支援は、商業目的だけでないことは明らかである。

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インフラ関係の支援以外に、中国からは武器も輸入している。ランド研究所の報告書によると、中国からの武器輸入は91年には始まっていたが、ここ最近の支援の増え方は尋常ではない。Jane’s Defence Weeklyによると2007年4月に、スリランカは中国と秘密軍事協定(Secret Arms Deal)を調印しているこの協定に基づくスリランカ国軍及び海軍に対する援助は3,760万ドルに達すると言われている。SIPRIによると、2007年には中国から6機の戦闘機(F7)、JY11-3D 防空レーダーシステム(China National Electronics Import Export Corp, 500万ドル), 軍事車両、対空兵器とミサイルを無償で供与している。うち1機はLTTEの軽飛行機を撃墜していることが確認されている。しかし中国を非難する前に、次の事実もあわせて押さえておく必要がある。世界の武器売買市場に占める中国のシェアは4%である。これは英国の半分であり、米国の10分の1である。

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強硬路線の結果、人権侵害に対する批判が欧米諸国を中心に盛り上がり、2007年に米国は軍事支援を打ち切っている。しかし非難するのは口だけで、武器輸出をやめていない国もある。ブルガリア、チェコ、スロバキア、英国、フランス、リトアニア、イタリア、オランダ、ポーランドなどは、口ではスリランカにおける人権侵害を非難しながら、武器輸出は続けている。輸出されている武器は、小火器、弾薬、ミサイル用火薬、軍事車両、船、戦闘機などである。スロバキアは、2008年に入って10,000発のロケット砲を輸出している。EUが発表した武器輸出に関する報告書によると、これら9カ国の2007年度の輸出額(Authorized Arm Sales License)は660万ドルにも及ぶ。2007年はスリランカ政府が武力による解決へと政策転換をした年である。

スリランカ政府はほかにもウクライナ、イランなどからも武器を買っている。ウクライナはミグー27を4機、980万ドルで売却、またJane's Defence Weeklyによるとイランも総額1億4090万ドルの武器輸出を約束している。その中には、スリランカ空軍のミサイルシステム、警備艇、小火器武器庫が含まれているという。

スリランカに対する支援を増やしているのは、中国だけではない。インドの2008年度の支援額も5億ドルで日本の支援額を超えた。こちらも発電所建設、通信施設などへ支援しているようである。

しかし現在のスリランカのトップドナーは中国ではない。イランなのである。イランは2008年4月に14億ドル(当時のレートで16億ドル)相当のソフトローン、無償、安価な原油を約束している。この後金融危機が発生したので、約束した通りに支援がなされるかは不透明であるが、日本が現状維持に甘んじ、トップドナーの座を奪われてからわずか2年で、4位にまで転げ落ちた。ぼーっとしている間に世界はこれだけ動いているのである。そしてこのような現象は、スリランカだけで起きているわけではない。世界のあらゆる場所で、似たような現象が起きているのである。にもかかわらず、日本に危機意識がなく、内向きの議論しか見られないのは心配だ。
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by iyasaca | 2009-06-20 23:10 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その9

2000年2月にスリランカ政府、LTTE双方から調停を依頼されたノルウェー政府は、水面下で協議を始めた。協議が進む中、2001年12月の議会選挙で、LTTEとの対話を通じた和平を訴えたウィクラマシンハ率いるUNFが政権につく。この政権交代が、和平への新たな機運を高めることになった。選挙から約2週間後の12月19日、LTTEは一方的に停戦を宣言、政府も24日に停戦に合意した。2002年1月1日には和平調整本部が立ち上がるなど、急ピッチに和平交渉の舞台が整い始めた。これが2006年7月に実質的に停戦合意が崩壊するまで4年間に渡る停戦期間の始まりであった。

第一回和平交渉は、2002年9月16日、タイ・サタヒップ海軍基地内で行われた。2003年4月にLTTEが一方的に和平交渉の一時中断を表明するまでの約8ヶ月間、計6回の和平交渉が行われた。

以下の通り、ほぼ月に一回のペースで和平交渉が開かれていた。また議題を追ってみると協議も順調とまではいかないまでも、少しずつ進展していた。
第一回和平交渉 2002年9月16日 タイ・サタヒップ海軍基地
第二回和平交渉 2002年11月11日タイ・パタヤ(治安、緊急人道支援、政治問題を扱う3つの小委員会の設置に合意)
第三回和平交渉 2002年12月ノルウェー(統一国家の枠内での連邦制導入を目指すことで合意)
第四回和平交渉 2003年1月タイ・ナコンパトム(和平成立後の政治的枠組みとしての連邦制について議論)
第五回和平交渉 2003年2月ドイツ・ベルリン(児童兵士問題とロードマップ作成をイアン・マーティン元アムネスティインターナショナル代表に委任することが決まる)
第六回和平交渉 2003年3月18日 日本 箱根

しかし箱根での第六回協議の翌月、LTTEは一方的に和平交渉の一時中断を表明する。その後も直接協議こそ行われなかったものの、2004年3月にLTTEのカルナ東部地域司令官の離反などの事件を経ながら、小康状態は続いていた。転機はクマラトュンガ大統領の任期満了にともなう大統領選挙であった。2005年11月の大統領選挙は、対話による和平を訴えるウィクラマシンハ候補と、強硬路線を訴えたラジャパクサ候補(Percy Mahendra 'Mahinda' Rajapaksa )の一騎打ちとなった。そしてラジャパクサ候補が僅差(ラジャパクサ50.29%、ウィクラマシンハ48.43%)でウィクラマシンハ候補を下し、大統領に当選するのである。

f0008679_17421226.jpgラジャパクサ新大統領の対LTTE政策は、一時期のクマラトュンガ大統領ほどの頑迷な強硬路線ではなく、より洗練されてはいたのだが、選挙後は双方で停戦合意違反の報告件数が増えるなど、小康状態にあった両者の関係に少しずつ変化が見えるようになった。それでも2006年2月22日には、ジュネーブで約3年ぶりの直接協議も実現したが、LTTEは4月に予定されていた第二回協議を6月に延期した上、土壇場で会議をキャンセルした。関係者全員が会議開催予定のノルウェーに入った後でのキャンセルに、さすがのノルウェーも公の席で憤りを表明した。

結局この実現しなかった協議を最後に、スリランカは再び内戦の道へと後戻りしていく。2006年7月にはスリランカ東部地域の水門封鎖事件を発端に、軍事衝突が再開、これをもって2002年以来の停戦合意は事実上崩壊した。スリランカ政府はその後も軍事作戦を展開、2007年6月にはLTTEの東部の拠点を全て制圧した。今後は北部に戦略資源を振り分け、引き続きLTTEに圧力をかけつつ、スリランカ政府に有利は形での紛争の妥結を探るということになるのだろう。
<写真:M. ラジャパクサ大統領(www.mahinda4srilanka.org/より)>


f0008679_17423681.gifさて日本は戦後スリランカに対して、多額のODAを供与している。世界の対スリランカODAの約7割は日本である。停戦期間中も日本政府は、スリランカ復興開発に関する東京会議(2003年4月)などで10億ドルの資金拠出(参加国中最高額)を表明し、また明石康氏を政府代表に任命するなどのスリランカ和平に向けて一定のコミットをしている。しかしながら、スリランカ和平における日本のプレゼンスは限りなく低い。日本は自らの経済的支援を用いて、交渉をしている気配がないのである。70代の後半にある明石氏の個人的限界もあるのだろうが、それ以上に和平交渉を行う上においてのサポート体制にも問題がある。

効果的な和平調停のためには、明石氏のような政府代表の下に、情報ソースとしての現地にネットワークを持つNGOと紛争研究の蓄積がなければならない。いずれの分野についても、日本は遠くノルウェーに及ばない。何しろ、このような分野でプロとして活躍できる人材がいないのである。今年度から外務省がパイロット事業としてスタートさせた「寺小屋構想」にも和平調停の分野は含まれていない。
<写真:明石康日本政府代表(スリランカの平和構築および復旧・復興担当)>


日本は戦後、日本国憲法のもと地域の発展と安定に武力以外の手段をもって貢献してきた。この戦後60年間の取り組みは国際社会からおおむね高い評価を得ていると言えよう。この高い評価の源である戦後日本の平和国家としての歩みと実績は、日本が今後も守り続けるべき財産である。

より積極的な国際貢献が求められるようになった日本はすでに平和構築と呼ばれる多くの分野に、政府として、また国際機関を通じて支援を行ってきている。しかし多くの支援は、欧米がひいた設計図の上をなぞっているに過ぎず、そこに内側から出てきた理念や信念を感じることはできない。

ありうべき日本の国際貢献の道筋はいくつかあるだろう。米軍との協力関係を強化するのもいいが、その切り口の一つは、和平・調停の分野であろう。紛争(紛争の再発)を予防し、平和の維持・構築の支援を行っていくという方向性は、平和国家として歩んできたと戦後日本の歩みと矛盾しない形で国際社会に対する責任を果たすことができる。この分野における人材育成が待たれるところである。
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by iyasaca | 2007-07-07 16:53 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(5)

ジャフナにいってみた その8

f0008679_032682.jpgプレマダーサ暗殺の翌年、スリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party,SLFP)は、小政党を自陣営に引き込み人民連合(People’s Alliance、PA)を形成する。People’s Allianceは、1994年8月14日の議会選挙で105議席を獲得し、94議席と追いすがった統一国民党(United National Party, UNP)をかわして政権を獲得した。1977年以来14年ぶりに政権が交代し、新たに首相に就任したのは、チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラテュンガ(Chandrika Bandaranaike Kumaratunga)。父に暗殺されたソロモン・バンダラナイケ元首相、母に1960年に世界初の女性首相に就任し、その後断続的に3期にわたって首相職を務めたシリマヴォ・バンダラナイケを持つサラブレッドである。首相に就任するとクマラトュンガは、国際赤十字を介して、LTTEへ直接会談を持ちかける。スリランカに訪れた三回目の和平の機会である。

<写真:C.B.クマラトュンガ大統領>


f0008679_0323150.gif1994年10月13日、バーラバ・タベンディを団長とする政府代表団はLTTEと交渉を始める。政府側代表団には、ライオネル・フェルナンド(上級公務員)、ナビン・グナラトナ(建築家)とラジャン・アサーワタン(新しくセイロン銀行頭取に任命された会計士)が、LTTE側は、スリランカ側東部の上級リーダーであるカリカーラン、そして後にLTTE の政治部門幹部となるタミル・チェルヴァンが交渉にあたった。
LTTEとの直接協議が進む中、プレマダーサ暗殺後に大統領に就任したウィジェトゥンガ(Dingiri Banda Wijetunga)が任期満了を迎え、大統領選挙が行われる。チャンドリカ首相は、その大統領選に立候補するのである。ところが選挙戦のさなか、対抗馬であるUNPの候補ディサナヤケ(Lionel Gamini Dissanayake)が暗殺される。UNP陣営はディサナヤケの妻を急遽候補に立てるが、11月12日に行われた選挙では、南部の強硬派、TULFなどタミル穏健派からも幅広く支持されたチャンドリカが圧勝した。大統領に就任したクマラトュンガは、母のバンダラナイケに首相職を禅譲した。

<写真:暗殺されたL.G.ディサナヤケ>


大統領選挙の熱気も覚めやらぬ1995年1月5日、両者は停戦に合意した。主な合意点は2点。第一に合意事項はスリランカ国軍とLTTEは600メートルの緩衝地帯を設け、現状の変更をしない。第二に、スリランカ政府軍は、指定された地域での漁業の妨害をしないという点であった。両者の間では、停戦発効後も和平委員会設置をめぐり、協議が続けられていた。結局、LTTEが和平委員会設置の条件として提示した、武装兵士の移動の自由(LTTE兵士に対する検問免除)、海岸部水域おける移動の自由、漁業権の問題解決という要求に対し、クマラトゥンガは、北東部への全ての生活必需品の禁止を緩和し、スリランカ軍基地の2 マイルの範囲内以外での漁業に関する規制を解き、エレファント・パスとサングピッディ基地の防御線を後退させて、ジャフナ半島と本土に結ぶ交通路を開くことに同意した。

国民的に人気があり、おそらく任期を通じてもっとも政治的に強い立場にあったクマラトュンガ大統領だからこそ、このような譲歩的な内容でも政府内の反対を押し切ることができたのであろう。しかし、政治的リスクを負ってまでLTTEに譲歩的な内容を受け入れたにもかかわらず、プラバーカランは4月28日付書簡で以下通知するのである。

・ 政府のポーネルン基地撤去の不履行
・ 東部におけるLTTE 兵士の武器を運ぶための移動の自由を許可することに対する政府の拒絶
・ プラバーカランにクマラトゥンガが手紙で誓約したと言われる漁業への全ての規制緩和に対する政府の不履行

通告の翌日、LTTEはトリンコマリー港に停泊していた2 隻の海軍砲艦を攻撃する。停戦は1995 年4 月19 日をもって終了した。この4度にわたって開催されてきた和平協議の決裂は、この後二期にわたるクマラトュンガの任期における対LTTE政策を規定することになる。大幅な譲歩を持っても停戦が維持できなかったことに深く失望したクマラトュンガは、話し合いによる解決が不可能であると確信し、融和的な姿勢を一転して、LTTE掃討を決意する。いかなる犠牲を払っても軍事力で紛争を解決するという新たなスローガン「平和のための戦争」を掲げ、ジャフナの再奪還を目的とする軍事作戦に着手し、多くの兵力を投入した。

10月末に始まったジャフナ攻防戦は激烈を極める。そして1995年12月5日、7週間の攻防戦の末、政府軍はジャフナを奪還する。LTTEはジャフナ半島の南に広がるジャングルへと逃亡し、戦火にまみれた市民35万人も避難民と化した。ジャフナ陥落後、LTTEによる自爆テロ攻撃が頻発する。国際的に報道されるほどの大規模な自爆テロ事件だけでも下記の通りである。

1996年1月  コロンボの中央銀行爆破事件 90人死亡、1,400人負傷
1997年10月 コロンボの世界貿易センタービル爆破事件 
1998年1月  キャンディーの仏歯寺爆破事件

1999年3月政府軍は、LTTEの本拠Vanniへの侵攻作戦「Rana Gosa」を展開するが、掃討作戦は失敗する。政府軍の攻撃をしのいだLTTEは1999年11月2日再攻勢をかけ、エレファント・パスを北に越え、ジャフナに迫った。

f0008679_19122262.jpgクマラトュンガ大統領はこの年、1年前倒しで大統領選挙を行うことを決定した。自らが進める強硬策を継続する政治基盤強化を図ることが目的であった。クマラトュンガはLTTEとの和平路線を主張するウィクラマシンハとの選挙戦を優位に進めていたが、選挙戦最終日である1999年12月18日、事件が発生する。クマラトュンガ大統領はその日、コロンボ市内シティ・ホール前を投票日最後の演説の場所に選び、支持者に最後の訴えを行った。演説を終え、車に乗り込む直前、LTTEブラックタイガー部隊から派遣された女性の自爆テロ要員が大統領を襲う。クマラトュンガ大統領はちょうど車に乗り込むため、身をかがませたところであったため、車のドアに守られて、一命を取り留めたが、破片が右目を直撃、失明する。この事件の余波も覚めやらぬ中、選挙は予定通り12月21日に実施され、クマラトュンガはウィクラマシンハに8ポイントもの差をつけて圧勝し、6年間の任期を手にするのである。

<写真:右目を負傷したクマラトュンガ大統領>


二期目のクマラトュンガ政権における新しい展開はノルウェーが仲介者として登場することである。スリランカ政府、LTTE双方からノルウェー政府に働きかけがあったのは2000年2月のことであると言われている。三者は水面下で協議を続け、2000年12月にLTTEが一方的に停戦を宣言するに至る。しかしこの4度目の和平の機会は4ヶ月で終わりを告げる。2001年4月24日には、停戦は破棄され、武力衝突が再開した。2000年4月の攻勢で、17年間政府軍が支配していたエレファント・パスはLTTEに占拠された。LTTEは攻勢を続け、ジャフナを目指し北に兵を進めたが、ジャフナを陥落させるまでには至らなかった。北東部だけでなく、コロンボにおいてもLTTEはテロ行為を続ける。

2001年7月24日に発生した、国際的にも耳目を集めたバンダラナイケ国際空港への攻撃が記憶に新しい。午前3時50分、滑走路に続く排水溝を通じて高度警戒地域(High Security Zone)を突破したLTTE特別部隊は、スリランカ最大の空軍基地Katunayake空軍基地を急襲し、スリランカ空軍の戦闘機4機(IAI Kfirs(イスラエル製)2機, Mil-17 1機, Mil-24 1機, K-7 trainers(中国)3機, MiG-27 1機)を破壊した。軍服を身に着け、対戦車ライフル、T-56アサルト・ライフル(カラシニコフAK—47の中国コピー版)、RPG(携行用ロケット弾)を装備した特殊部隊要員は、続いて基地の隣にあるバンダラナイケ国際空港に移動、ターミナルビルの屋上によじ登り、そこから駐機してあった3億ドル(約370億円)もするスリランカ航空最新鋭の旅客機エアバス340を含む旅客機4機((Airbus A330s(2機), A340(1機)、 A320(1機))に迫撃砲を撃ちこみ破壊した。空港を即時閉鎖された。ターミナル内の200名あまりの旅客は近くのホテルに避難し死者は出なかったが、LTTEのテロ実行能力を見せつけた事件となった。
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by iyasaca | 2007-06-03 17:02 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その7

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<写真:ジャフナ近郊の村落>
ラジブ・ガンジーとジャヤワルダナの強いリーダーシップのもと進められてきたIPKFによる紛争解決は、1989年に転機を迎える。1月にジャワルダナ大統領は退任、ラジブ・ガンジーも年末の選挙に敗れ、表舞台から去ることになる。

スリランカの新しい大統領プレマダーサ(Ranasinghe Premadasa)は、就任直後の4月にIPKF撤退を停戦の条件とする和平交渉を開き、撤退を決定する。6月にはIPKFの撤退が始まった。またプレマダーサはこの時期、LTTEとの直接協議を始めている。インド・ランカ協定の失敗の一つは、当事者であるタミル系武装勢力とりわけLTTEを対話の相手としてみなさず、インド政府とスリランカ政府が北東部の利害関係者の頭越しに交渉が進められ、実施に移そうとしていたからである。政府側首席は外務大臣A.C.S.ハミード、LTTE側はアントン・バラシンハムが代表者であった。協議の末、政府はタライマンナー、ヴェルヴェッティトウライ、ポイントペドロなど北部の戦略的に重要な軍事基地を閉鎖した。さらに協議においては北東部州議会の権限委譲、北部と東部の合併、IPKFの撤退などが話しあわれた。しかし、14ヶ月に及んだこの努力も実らず1990年6月、協議は決裂し戦闘が再開することになるのである。

一方インドの側にも政治的変動があった。ラジブ・ガンジーを首班とするインド国民会議派が、IPKF撤退を選挙公約の一つとして選挙を戦ったV.P.シン率いる国民戦線に敗北したのである。これで両陣営ともにインド・ランカ協定に否定的なグループが政権の座に就くことになったのである。スリランカへの関与の度合いを減じようと急ぐシン政権とインドの影響力排除を狙うプレマダーサの思惑は一致し、ジャヤワルダナとラジブ・ガンジーの間で締結されたインド・ランカ協定の合意事項は次々に覆されていった。やがて、インド・ランカ協定の要である北東部州議会も機能不全に陥り、事実上インド・ランカ協定は崩壊した。

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ちなみに、インド・ランカ協定によって和平がもたらされて期間にLTTEは、純粋な軍事組織から文民機能を備えた準国家的な組織へと変貌を遂げる。特に、IPKF撤退後しばらくは、スリランカ政府はJVPの騒乱の後始末に追われていたため、しばしの平穏が訪れた。その時期北東部には、すでにLTTEに対抗しうるタミル系武装組織は存在しなかったため、ジャフナを中心にLTTEは行政機能を充実させることができたのである。

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LTTEが設立した主な行政機構には以下のものがある。
1) 警察機構(タミル・イーラム警察)
2) 裁判所(タミル・イーラム司法省)
3) 士官学校(タミル・イーラム士官学校)
4) ラジオ局(Voice of Tigers)
5) 衛星テレビ局(National Television of Tamil Eelam)
6) 教育機構(Education Development Board of Tamil Eelam)
7) ロー・スクール(タミル・イーラム ロー・スクール、Law College of Tamil Eelam、独自の刑法もある)
8) 中央銀行
9) 税関
10)病院

LTTE支配地域では、上記のような行政機構が現在でも公共サービスを提供している。タミル・イーラム警察が交通違反の切符を切り、罰金については郵便局経由で支払うよう言い渡される。税関では、次から次へと運び込まれる物品に課税がされている。また放送局からはLTTEの主張が絶えず流されている。特に力をいれているのは、電子メディアである。LTTE系のウェブ・サイトでは充実したコンテンツが日々更新されている。唯一通貨だけは自前のものを持たず、スリランカ・ルピーを用いている。また、これら行政機構は、機動性を持たせるため、すべて軍事組織の指揮系統の中にある。

f0008679_056362.gifさて、1989年に始まったIPKFの撤退は1990年3月に完了する。しかしIPKFの撤退は、更なる混乱を引き起こすことになるのである。停戦期間中に軍事力の増強を図り、自信を深めたスリランカ政府は、1990年6月に、ジャフナを再奪還するための軍事作戦を開始する。政府軍はジャフナへの空爆を続け、多くの避難民が発生した。LTTEもそれに対抗するため、北東部に住むシンハラ人やイスラム教徒の村で殺戮を繰り返した。1990年10月にLTTEは2万8,000人のイスラム教徒すべてをジャフナから追放する。和平は完全に振り出しに戻ってしまったのである。そのような時期に事態をさらに悪化させる事件が発生するのである。
<写真:ラジブ・ガンジー第9代インド首相>

LTTEが目をつけたのは、スリランカ北東部の独立を阻むインド・ランカ協定を強力に推進し、再び政権に返り咲こうと戦略を練るラジブ・ガンジーであった。折りしもインドでは1991年末に選挙を控えており、ラジブ・ガンジーは精力的に地方を回り、党勢の拡大に力を注いでいた。ガンジーはその日も、国民会議派候補の応援演説を行うためにチェンナイから45キロほどの距離にあるスリペルブデュール(Sriperumbudur)村に向かっていた。しかしその場には、LTTEのブラック・タイガー部隊から女性要員ダヌ(Dhanu、本名Thenmuli Rajaratnam)が送り込まれていた。1991年5月21日午後10時10分、1万以上の2ミリ鋼球を埋め込んだ強力な軍用炸薬RDX(トリメチレントリニトロアミン)を腰に巻きつけたダヌは、用意していた花輪をガンジーの首にかけ、かがみこんで彼の足に触れたと同時に腹部に潜ませていた起爆装置を作動させた。ラジブ・ガンジー氏は即死、周りの多くの人間も巻き添えとなった。

f0008679_0574663.jpgガンジー氏暗殺というショッキングな事件も、スリランカ情勢にポジティブな変化はもたらさず、スリランカ政府軍によるジャフナ奪還作戦は継続していた。最も激しい戦闘は1991年7月、ジャフナ半島とスリランカ本島を結ぶ砂州であるエレファント・パスで行われた。エレファント・パスは、象一頭がやっと通れるくらいの幅しかない。それはつまりジャフナ半島へ陸路で至る唯一の道であるということである。そのエレファント・パスにある政府軍の陸軍基地をめぐって、5,000名のLTTE兵が一ヶ月に渡る包囲戦を敷き、双方に2,000名もの犠牲者が出るほどの激戦となった。1992年2月に政府軍はジャフナに迫るが、LTTEは少数の兵士で政府軍の波状攻撃に耐え、ジャフナを1995年12月までの3年10ヶ月間守り抜いた。
<写真:R.プレマダーサ大統領>

この大規模作戦のさなかにもプレマダーサ大統領はムナシンハ委員会(1993年)を設置するなど和平の道筋を探ったが、その動きは1993年5月1日、突然の事件によって終わりを告げる。LTTEブラックタイガー要員による自爆テロが、スリランカ大統領プレマダーサの命を奪ったのである。この事件によってスリランカ情勢は、新たな女性政治家が登場する1994年まで膠着状態に陥るのである。
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by iyasaca | 2007-05-27 02:50 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その6

インドがあえて国連の枠の外で単独でスリランカ和平にかかわった1980年代後半の話の続きである。インドが軍隊を投入してまでスリランカに関与するのは、1983年に始まった内戦期間中、この時期だけである。

さてLTTE、そしてシンハラ・ナショナリストの反対にもかかわらず、両政府はインド・ランカ協定の合意事項の履行を淡々と進める。合意事項に基づくロードマップでは、

1)1987年末までに北東部州に臨時行政評議会(Interim Admistrative Council)を設立する。
2)北東部州議会選挙実施

しかし、臨時行政評議会の8議席の配分をめぐって、調整がつかない。1987年7月の段階では、タミル系グループに対しては、等分の議席配分がなされるということが前提であった。しかしLTTEはその議席配分案に納得しなかった。LTTEが議席配分を増やせば、他がしわ寄せを受ける。議席配分をめぐる協議は難航を極めた。協議が続く間も散発的な戦闘は止まず、平和をもたらすということ一点に期待を寄せられていたIPKFに対するシンハラ、タミル双方からの見方も厳しさを増すばかりであった。また戦闘中に交渉を行うということは、捕虜交換や軍事作戦を交渉条件として組み込まれる可能性もあり、交渉をより複雑にするリスクを抱えることでもあり、高度に政治的な協議を進めるにあたって好ましい環境ではないのである。

f0008679_9353635.jpgそこへLTTEメンバーの一人であるティレーパン(Thileepan)がナルー・ムルガン寺院(Nallur Murugan Temple)でハンガー・ストライキを始めた。当初はさほど注目されていなかった動きであったが、LTTEがそのハンガーストライキを追認するなどの動きでプレイアップされていく中で、徐々に政治的意味を持つようになっていった。25歳の青年の要求はテロ防止法によって拘束されている全てのタミル人の解放、タミル人居住地域へのシンハラ人による入植の停止、北東部におけるスリランカ警察の駐屯所の追加設置の停止、スリランカ政府が提供した武器で武装したタミル武装グループの武装解除、そしてスリランカ国軍の北東部地域の学校からの撤退などであった。
9月24日、26日、28日と行われたディキシット(Jyotindra Dixit)駐スリランカ高等弁務官とプラバーカランの直接交渉では、臨時行政評議会の定数を8から12とし、諮問議会の過半にあたる7議席をLTTEに与える提案を携えてLTTEとの交渉に臨んだ。28日にプラバーカランは新提案に合意した。最終合意案は、LTTEが7議席、TULFが2議席、スリランカ政府2議席、そしてムスリム系に1議席(スリランカ政府の任命による)であった。交渉が行われている最中の26日、ティリーパンが衰弱死してしまう。このことは、一般民衆レベルの反インド感情をさらに刺激することになった。彼の命日には今でもプラバーカランが献花をするなどセレモニーが行われている。
<写真:ハンガーストライキを続けるティリーパン>


さてLTTEは評議会へ送り込む7議員の名簿を提出するところまで話は進んでおり、交渉の焦点は、臨時行政評議会の議長選任と一部議員の入れ替え問題に移っていた。前者の議長問題については、LTTEはテロ防止法で45ヶ月間の拘留を経て、解放されたばかりのN.パットマーダン(Pathmanathan)を推し、スリランカ政府は、前ジャフナ市理事のシバニャーナン(C.V.K. Sivangnanam)を推していた。議長人事が難航する中、決定的な事件が発生する。

1987年10月2日、スリランカ海軍がポイントペドロ沖を航行中の2 隻のトロール船を拿捕し、積載してあった武器と弾薬を押収、17名のLTTE要員を拘束するという事件が発生した。17名の中にはLTTEのトリンコマリー地区司令官プレンドラン(Pulendran)、ジャフナ地区司令官クマラッパ(Kumarappah)などスリランカ政府が100万ルピーの懸賞金をかけていた重要人物も含まれていた。17名はIPKFとスリランカ海軍の基地のあるパライ(Palay)まで連行された。

スリランカ政府は、積まれていた武器・弾薬はタミル・ナドゥからの密輸品であり、合意事項違反及び出入国管理法違反にあたるとし、尋問のためコロンボに連行する主張した。LTTEは、インド・ランカ協定の合意事項においてLTTE要員は恩赦されているはずだと主張したが、スリランカ政府は合意事項以前の罪状についての恩赦であり、今回のケースはその対象ではないとした。

インド政府は、事態のさらなる悪化を避けるため、17名をコロンボに送還しないようディキシットはジャヤワルダナ大統領と直談判を行う。当初はIPKFも実力でコロンボ移送を阻止する構えであった。しかし10月5日午後4時半、IPKFはニューデリーからコロンボ移送を黙認するよう命令を受ける。障害のなくなったスリランカ政府は、移送を即日実施することを決定した。このインド政府の心変わりの背景は不明である。移送の直前LTTEのナンバー2、マハータヤ(Gopalaswamy Mahendraraja)に17名との面会が許されている。どうやら、このときにシアン化物のカプセルを人数分渡したとされている。

10月5日午後5時半いよいよ移送が始まった。17名は移送中に一斉にシアンカプセルを飲み、二人の地区司令官含む12名がその場で絶命した。3名は入院先の病院で死亡が確認された。

この事件を契機にLTTEとインドの関係は急速に悪化する。臨時行政評議会が組織されたのは1988年12月。その議長職にはEPRLFのヴァラタラージャ・ペルマーが就いた。その後で開かれた州議会選挙は北部では実施されず、LTTEはジャフナから追放された。この時点を持って事実上インド・ランカ協定の根幹を支える臨時評議会は機能不全に陥っていたと言えるだろう。

ちなみにプラバーカランの従兄弟でもあるLTTEナンバー2のマハータヤ副議長は、1989年にLTTEの政治部門のリーダーとして解放のトラ人民戦線(PFLT,People's Front of Liberation Tigers)という政党を立ち上げる。しかし1992年にはLTTEの副議長職とPFLT党首の職を解かれ、1993年にはインドの情報機関RAWにLTTEの機密事項を漏洩したとして拘束され、1994年12月28日LTTEによって暗殺された。


f0008679_0572587.jpgIPKFに対する風当たりはいよいよ強くなり、ついにスリランカ政府は、IPKFの撤退をインド政府に要請しする。すでに、IPFKは撤退に向け、独自にLTTEと停戦合意に達していた。スリランカ政府のほうでは、IPKFの撤退を促すためにLTTEへの支援も行ったとも言われている。ガンジー首相は、一貫してIPKFの撤退に反対の立場であったが、1989年12月の議会選挙を機に退陣したこともあり、その後インドは、急速にスリランカとの距離を置くようになる。

新首相に就任したシン首相(V. P. Singh)は、公約通りIPKFの撤退を決断した。IPKFの最後の部隊は、1990年3月24日にスリランカ北東部の港湾都市トリンコマリーからインドに帰任した。ここに12万もの兵力を投入したIPKFの32ヶ月にわたる駐留が終了したのである。インド軍兵士の犠牲者は1,100名。スリランカ側の被害者は5,000人。20,000,000インドルピーの戦費が費消された。しかし、IPKF撤退後LTTEは単なる軍事組織から文民機能を備えた統治機構を徐々に整えていくのである。

<写真:トリンコマリー港より撤退するIPKF(Army, Sri Lanka. (1st Edition - October 1999). "50 YEARS ON" - 1949-1999, Sri Lanka Army. ISBN 995-8089-02-8)>

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by iyasaca | 2007-05-19 14:10 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その5

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<写真:ヤシの木。LTTEのスナイパーが木の上に身を隠し、政府軍兵士を狙撃していたため、葉の茂る木の上部が政府軍によって切り取られている(キリノッチ近郊)>
インドがスリランカ紛争にかかわりを始めたのは1980年代のことである。インドとスリランカの関係は複雑である。インド南部のタミル・ナードゥ州は6,000万人ものタミル人口を抱えている。インド中央政府は、スリランカ北部でのタミル分離独立の動きが、いつタミル・ナードゥ州に飛び火するか分からないという懸念を持っている。現にタミル・ナードゥ州には独立派の動きもある。

インド中央政府としては、タミル・ナードゥ州の分離独立の動きを加速させかねないスリランカにおけるタミル・イーラムの分離独立という事態を避けた形での事態沈静化を望みつつも、同時にスリランカから完全にタミル勢力が駆逐されてしまうことも避けたかった。よって、その対応は一方で両者に和戦を呼びかけながら、スリランカ北東部のタミル勢力が弱体化すると、インドの情報機関RAWを通じて、陰に陽に武器・弾薬などの支援を行うなどした。結局このintricateな政策を遂行していたラジブ・ガンジーは94年にLTTEによって暗殺される。ソ連侵攻後にアメリカが支援していたアフガニスタンのムジャヒディーンが、20年後にアル・カイーダとしてパトロンであったアメリカに牙を向いたという話と似ている。いずれにしてもインド政府の抱えるジレンマが、結果としてスリランカ情勢を悪化させた側面は否定できない。

1985年のティンプー会議が頓挫した後もインドは外交攻勢をかけ、スリランカの和平に関与を続けた。1986年11月には、バンガロールにてラジブ・ガンジー首相と当時チェンナイ(マドラス)に居を構えていたプラバーカランとの直接協議が行われている。間を取り持ったのは、当時LTTEのパトロンと言われていたタミル・ナードゥ州州政府首相のM.G.ラマチャンドランである。プラバーカランは、ガンジーが提示した州単位での権限委譲に納得しなかったが、ラジブ・ガンジーはタミル系武装勢力とではなく、スリランカ政府との交渉を続けた。インドは硬軟織り交ぜた外交交渉を行う。交渉が行われているさなかの1987年6月5日、インド空軍は、ジャフナでスリランカ政府軍に包囲されていたLTTEに25トンの食糧と薬品輸送を行った。あと一歩で陥落というところまで来ていたスリランカ政府は大きな痛手を蒙った。協定締結に応じることを促すインド政府からのメッセージであった。

そして、ついに1987年7月29日、ジャヤワルダナ大統領とラジブ・ガンジー首相の間でインド・ランカ協定が締結された。この協定でタミル系武装勢力に対する武装解除やスリランカ政府による北東部への州単位での権限委譲、タミル語の公用語化、インド平和維持軍の派遣などが合意された。多くの合意事項はインド側の意向に沿ったものであった。主な合意内容は以下の通り。

1)一つのスリランカ、スリランカの主権と統一の維持
2)各民族の文化的・言語的アイデンティティの保護
3)北東部州をタミル語を話すスリランカ人の歴史的居住地域として承認する
4)「暫定措置」として、北東部州を一つの選ばれた州議会、一人の州知事、首席大臣と各大臣から構成される委員会を持つ一つの行政単位とする。
5)「暫定措置」の将来については、1年後に行う国民投票で決定する。
6)上記合意条件の下、インド政府は「提案の実行における問題解決と協力」を引き受けることを保障する。


LTTE議長のプラバーカランは、調印式のその日、デリーのアショカ・ホテルにて事実上の軟禁状態にあった。IPKFが進駐し、「ようやく平和が訪れる」と大歓迎したタミル人を横目に、LTTE幹部はプラバーカランの軟禁解除を要求する抗議デモや座り込みを行った。72時間以内の武装解除という合意事項の履行を求めるIPKFに対し、LTTEのジャフナ地域司令官のクマーラッパは、プラバーカランの命令なくして、武装解除は実施できないと応じる。72時間という武装解除期限を翌日に控えた8月2日、インド当局はプラバーカランの軟禁措置を解いた。プラバーカランは、その日のうちにジャフナに戻り、翌々日、ストゥマライ・アンマン寺院の境内でスピーチを行った。5万人の群集を集めたスピーチの中で、今回の両政府の合意は、「我々のコントロールを超えるところで我々の政治的運命を決定した」ものであるものの、合意は受け入れなければならないと表明し、LTTEの武装解除にも同意した。しかし、結局LTTEは2車両分の武器しか差し出さず、本格的な武装解除にはついに応じなかった。

合意に対する反対はLTTEだけではなかった。野党スリランカ自由党(SLFP)とJVPは合意に反対し、抗議デモを行った。デモの群衆は暴徒化し、38名が死亡する事態も発生した。協定締結の歓迎式典では、スリランカ海軍の水平が銃口を招待されていたラジブ・ガンジーに向けるという事件まで発生する。

f0008679_05651100.gifそしていよいよインドからの平和維持軍(Indian Peace Keeping Force, IPKF)の進駐が始まる。IPKFは合意に基づきLTTEの動員解除に着手する。しかし合意したはずの武装解除にLTTEは反発し、IPKFとの間で武力衝突にまで発展してしまう。平和を維持するはずのIPKFは、皮肉にも本格的軍事作戦の展開を余儀なくされるのである。IPKFが強引に進めた軍事作戦は、北部・東部のタミル人の反発を買うことになった。同時にシンハラ民族主義者からもインドのプレゼンスへの反感がさらに強まることにもなった。
<写真:インド平和維持軍(Rediff.netより)>

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by iyasaca | 2007-05-12 08:16 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その4

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1976年5月5日 、「タミルの新しい虎」から「タミル・イーラム解放のトラ」へと名称を変えたプラバーカランはLTTEの議長および軍司令官に就任する。LTTEの活動は1983年に至るまでは、訓練場に踏み込んできた警察隊への防御的攻撃や銀行強盗など、いわば組織犯罪というレベルにとどまっていた。

1977年の暴動事件の6年後の1983年7月、スリランカで再び暴動が発生する。後に「暗黒の7月事件」と呼ばれる騒擾事件である。この事件の後、スリランカは「タミル・イーラム解放のトラ」(Liberation Tigers of Tamil Eelam: LTTE)対スリランカ政府という武力対立の時代へと入っていく。

1977年の暴動事件同様、そのきっかけは小さな事件であった。1983年7月23日、LTTEがジャフナ近くで政府軍を待ち伏せし、13名を殺害した。似たような事件は過去にもあったが、2日後に事態が急変する。コロンボで執り行われた政府軍兵士の葬儀に参列したシンハラ人の一部が暴徒化したのである。暴徒は道行く人の身分証明書を取り上げ、タミル人に対しては危害を加えた。暴動は、1977年同様、キャンディ、マータレ、ナワラピティヤ、バッデュラ、ヌワラエリヤなど各都市に飛び火した。スリランカ政府は24時間後、戒厳令を布告し、暴動の鎮圧に努めると同時に、タミル人に対して警護つきの一時避難所を市内5ヶ所に提供するなどの措置をとった。暴動は、7月28日にスリランカ政府の要請を受けたインディラ・ガンジー首相が、外務大臣ナラシマ・ラオを団長とする使節を派遣したことをきっかけに沈静化した。正確な数字はないが、1,000名から3,000名の犠牲者が出たと言われている。

ただ1983年当時、LTTEは多くのタミル系武装組織の一つに過ぎなかった。支持基盤などの面で伸び悩んでいたLTTEは、事態打開のため1984年4月、イーラム民族民主解放戦線(Eelam National Liberation Front;ENLF)という3つのタミル系武装グループから成る連合組織に参加した。ちなみにその3つの組織とは、

1)タミル・イーラム解放組織(Tamil Eelam Liberation Organization, TELO)
2)イーラム革命学生組織(Eelam Revolutionary Organizers of Students, EROS)
3)イーラム人民革命解放戦線(Eelam People’s Revolutionar Liberation Front, EPRLF)
である。

1983年の内戦勃発後、LTTEは北東部ムライティヴ地区(Mullaitivu)のケント&ダラー牧場事件(33名死亡)やアヌラーダプラ事件(146名死亡)などで市民への無差別発砲などの事件を幾度か起こしているが、いずれも散発的な事件であり、持続的な戦闘を伴うものではなかった。このLTTEの戦闘能力は停戦と戦闘を繰り替えすごとに強化されていくことになる。

スリランカ政府とタミル側の間には今まで5回の和戦の機会があった。最初の和平の機会は、1985年に訪れた。1985年6月、ジャヤワルダナ大統領はニューデリーでラジブ・ガンジーと会談を行う。ラジブ・ガンジーはスリランカとの関係改善に積極的で、生涯を通じて、スリランカ問題の解決に力を注いだ。スリランカ北部のタミル問題がくすぶり続けることは6000万を越えるタミル人を抱えるインド南部州の一つタミルナードゥ州の分離独立の動きにもつながりかねず、インドにとってスリランカは安全保障上の懸念であった。スリランカにとっても、インド南部からスリランカ北部へと渡る経済支援、軍事教練場として提供されていることなどに不満を抱いていた。

その後、インドの外務事務官ロメーシュ・バーンダリがコロンボを訪問し、実務協議を行った。協議の末、6月18日、スリランカ政府とタミル系武装組織は停戦を発表、翌月にブータンの首都ティンプーで和平交渉を行うことを発表した。

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<写真:第一回ティンプー和平協議の様子(Association of Tamils of Sri Lanka in the USAより)>
ティンプーでの会議には、タミル側からは、学生によるイーラム革命組織(Eelam Revolutionary Organizations of Students: EROS)、タミル・イーラム人民開放組織(People's Liberation Organization of Tamil Eelam: PLOTE)、タミル統一解放戦線(Tamil United Liberation Front: TULF)、イーラム国民解放戦線(Eelam National Liberation Front、ENLF:LTTE、TELO、EPRLFの三団体の連合組織)が招待された。当初イーラム国民解放戦線(ENLF)は、参加に難色を示していたが、インド政府の強い働きかけにより参加を表明した。上にも述べた通り、タミル系武装組織の一つに過ぎなかったLTTEはENLFの一員として会議に参加した。

1985年7月に6日間に渡って開催された第一回会議では、まずタミル代表団から4つの要求が提示された。
1)タミル人は、異なるアイデンティティを持つため、国家(Nation)として認められなければならない。
2)スリランカの北東部地域がタミルの歴史的居住地域(traditional homeland)であることの承認と、その領土の不可侵性の保障
3)スリランカのタミル人の自決権の承認
4) スリランカに住むすべての住民に対する民主主義原則の適用と基本的人権の保障(平等原則)

スリランカ政府代表の団長は、最初の3つの要求が、スリランカからの分離独立を意味するのであれば容認できないと回答し、そして4つ目の要求については、今回のタミル代表団には近年インドから移住したいわゆるインド・タミルを代表する組織が含まれていない、つまり「スリランカに住むすべてのタミル人を代表していない」ため、その要求をする資格がないと回答した。また解決策は既存のスリランカ憲法の枠内で行うこと、よって北東部への権限委譲は、県単位であり、またその場合においても現憲法で規定されている県議会の權限を越えることはないと表明、タミル側は反発し、協議はほとんど進展しなかった。唯一、次回協議の日程にだけは合意し、第一回会議は終了した。

スリランカ北部で7月20日からスリランカ政府とタミル系武装組織間の武力衝突が続く8月12日に開催された第二回会議では、スリランカ政府の攻撃が止まないことを理由に、LTTEが会議の途中で引き上げてしまった。他のグループは話し合いこそ進めたものの、結局成果を出すことができずに、停戦は破棄された。

第二回会議が決裂した後も、インドはいくつかの提案を行っている。その中でも県単位ではなく、州単位での権限委譲を内容とする枠組みは、その後の和平協議のよりどころとなる重要な提案であった。しかしながらこの提案は、スリランカ政府の同意をとりつけるところまでいったが、タミル側の同意を得ることはできずに実現には至らなかった。

和平協議が頓挫するとLTTEは、当時最大の勢力を誇っていたTELOとの抗争に入る。数ヶ月でTELOの指導部と数百の志願兵は全滅し、TELOは武装組織として機能不全に陥った。その後TELOは、武装組織としてではなく、政党として活動することとなる。そしてTELOを掃討した数ヵ月後、LTTEはEPRLFとの抗争を始める。LTTEはEPRLFとの抗争にも勝利し、EPRLFは支配地域であったジャフナ半島から完全撤退する。

LTTEがタミル・イーラムを標榜する他の武装組織との抗争に走った理由については諸説ある。TELOに対しては、インドに対する立場の違いが背景にあると言われている。インドの情報機関である情報分析局(Research and Analysis Wing, RAW)から武器、軍事教練、資金面などで援助を受けつつも、インドに対しては距離を置いていたLTTEは、親インド的な立場をとるTELOと折り合いが悪かった。特にスリランカ問題の連邦制による解決を打ち出していたインドの新首相ラジブ・ガンジーの登場は、親インドのTELOがタミル側に不利な連邦制を支持するのではないかとの疑念をLTTEに抱かせることとなったのである。ティンプーでの和平協議における他のタミル系組織の姿勢もLTTEにとっては「インドに譲歩しすぎ」であり、受け入れられるものではなかったのかもしれない。

いずれにしてもLTTEは短期間に、敵対する勢力は武力で排除し、他のタミル系武装組織を傘下におさめた。87年にはLTTEはタミル・イーラムを主張するほぼ唯一の政治勢力となっていたのである。

f0008679_18332252.jpg抗争のさなかにあっても、LTTEはプラバーカランの強力な指導のもと、着々と体制を整えていった。1984年にはシータイガーという海軍部隊を、また1987年には自爆テロ部隊であるブラック・タイガーが作られるなど、LTTEは徐々に軍事力を蓄え、また同時に陰惨な殺戮事件も起こすようになっていた。当初はLTTE要員による短機関銃、自動小銃、手榴弾などの攻撃がメインであったが、徐々に自爆テロ事件も起こすようになる。



LTTEが関係したといわれる暗殺事件のリンクはここ。(Wikipedia英語版)
同じくLTTEが関係したといわれるテロ事件のリンクはここ。(Wikipedia英語版)


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by iyasaca | 2007-05-05 19:24 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その3

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ジャフナの地にあって、スリランカが内戦に至る経緯を振り返っている。

1977年7月21日、第8回総選挙(定数168)が行われた。与党として戦ったスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party: SLFP)は、147人の候補者のうち139人が落選するという大敗を喫し、代わって政権の座についたのは140議席を獲得した統一国民党(United National Party: UNP)であった。UNPは、改選前議席17からの大躍進であった。またこの総選挙では、タミル統一解放戦線(Tamil United Liberation Front:TULF)が18議席を獲得した。SLFPの壊滅的な敗北もあってTULFは、大勝したUNPの140議席に続く国会の第二勢力となったのである。

TULFは、1972年に連邦党(Federal Party)と全セイロンタミル会議(All Ceylon Tamil Congress)などのタミル系政党が合併してできたタミル統一戦線(Tamil United Front: TUF)を前身に持つ。そのTUFが、1976年に「世俗的で社会主義国家としてのタミル国家の要求」を採択したことを受けて、TULFに改組・改称したのである。

<写真:ジャフナのラグーン>

いずれにしても、タミル系政党が野党第一党に躍進したという事実、特にジャフナ半島の14の選挙区全てでTULFが議席を獲得したということは、多くのタミル人が、憲法の枠内で合法的に権利拡大を目指すTULF(Tamil United Liberation Front)の路線に大きな期待を寄せていたことを示している。しかし、この政治路線は70年代後半から80年代前半に立て続けに発生する事件に力を奪われ、代わって若者を中心に支持を集めていた武力闘争路線を標榜するLTTEが表舞台に出てくるようになる。第一の契機は1977年に発生した反タミル暴動である。死者100名(一説には300名)、逮捕者1,500人そして避難民2万5000人を出したこの暴動のきっかけは他愛のないものだった。

1977年8月12日、ジャフナで開かれていたロータリークラブ主催の祭りに見回りのため、警察官の一団が入場ゲートに向かっていた。ところが警察官は入り口で係員に止められ、入場券の購入を求められたのである。公務中の場合、入場券が免除されることが通常であるため、激昂した警察官は係員に暴行を加えるなどした。騒ぎはここでおさまらず、翌日タミル人の少年が警察官に銃撃を加えるという事件が発生する。8月15日には警察による報復行為ではタミル人4人が死亡、25人が負傷する。その後も警察によるタミル人に対する報復行為は連日続き、8月17日にはジャフナの中央市場に火が放たれ、ほぼ全焼する事態にまでエスカレートした。


f0008679_15373830.jpg暴動は、他の都市にも飛び火する。古都アヌラーダプラでは、ジャフナ大学に通うシンハラ人学生による「タミル人がシンハラ人の警察官を殺した」という類のアジ演説に興奮したアヌラーダプラ市民が、タミル人の店や家、ヒンズー教の寺院などを襲う事態にまで陥った。さらに7月に就任したばかりのジャヤワルダナ首相(Junius Richard Jayewardene)による「この暴動はTULFの扇動によるものである」とのTULFを痛烈に非難した発言が火に油を注ぐ。首相発言を機に、暴動はさらに、コロンボ、パナデュラ(Panadura)、カルタラ(Kalutara)などの都市にも飛び火し、その後もクルネーガラ、マターレ、ポロンナルワ、キャンディなどに広がっていった。この段階に至って、政府はようやく戒厳令を布告し、事態を収拾した。8月20日のことである。この事件の収拾をめぐって、政府は一つだけタミル側に譲歩した。大学の標準化政策を修正したのである。しかしシンハラ・タミル間のこじれた感情に新しい方向性を持たせることはできなかった。

<写真:J.R. ジャヤワルダナ首相>
ジャヤワルダナは1978年7月に憲法を改正し、大幅に權限を強化した大統領職に就任する。この大統領制はフランスの制度に近いとも言われているが、実質的にはフランス大統領よりも大きな権限を持っている。フランス大統領は、国防と外交にその権能が制限され、内政については首相にその職務が託されているが、スリランカの大統領制度は首相含む閣僚の任命権を有するなど議会からの独立性が高い。議会は大統領罷免の権限を有しているが、大統領は議会の承認を必要としない大統領令の発令が可能であり、また全土に非常事態宣言を布告できる。

f0008679_1733918.jpg強大な権限を手にしたジャヤワルダナ大統領は、テロ防止法を施行する。この法律は警察に逮捕・監禁に関する大幅な権限を付与するものであった。また暗殺されたS.W.R.D.バンダラナイケ首相の後を継ぎ、首相職を断続的に3期にわたって務め、SLFPの有力な大統領候補であったバンダラナイケ(Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike)を6年間の公民権停止処分に付した。1982年に予定されていた大統領選挙のライバルを蹴落としたわけである。さらに1983年の議会選挙を国民投票で中止し、任期を1989年に延長した。また1983年10月には、分離独立に関与した国会議員の被選挙権を剥奪する規定を憲法修正第6条として盛り込み、分離独立不支持の宣誓を拒否したTULFの16議員全員の議席を剥奪したのである。
<写真:S.R.D. バンダラナイケ>
ちなみにジャヤワルダナは、サンフランシスコ講和条約にセイロン全権として出席している。当時蔵相であったジャヤワルダナは、対日賠償請求の一切を放棄することを表明するなど、日本に好意的な演説を行っている。スリランカ人の多くはこのことを記憶していて、日本人にこの事実が知られていないことを知るといつもがっかりされるので、参考のため演説の一部を引用する。

「アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。・・・我々アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本こそが必要である。・・・憎しみは憎しみによっては止まず、愛によってのみ止む。」

またジャヤワルダナは、民営化されたJRという名称を、自分のファーストネームのイニシャルにちなんで命名されたと勘違い?し、親戚を引き連れて、東海道新幹線でグリーン車の往復旅行をしたというエピソードも残している。

もう一つ、ジャヤワルダナ関連のエピソード。ジャヤワルダナは、1985年にスリランカの首都をコロンボから移転している。新首都の名前は、学校でやたら長い首都名として記憶にある人もいるだろうが、スリジャヤワルダナプラコッテである。スリはスリランカの国名にもある通り「光り輝く、聖なる」と言う意味。ジャヤワルダナは大統領である自分の名前であると同時に「勝利をもたらす」という意味があり、14世紀のコッテ王国時代の都の名前でもあった。プラは、~プラという形でインド、スリランカ及び東南アジアの都市に多く見られる言葉であるが、「都、土地」という意味を持つ。例えば、シンガポールという国の名前も「Singha(獅子)」と「Pura(都)]から成る。シンハ・プラ、つまり獅子の都というのが語源である。前のエントリーでも紹介したアヌラーダプラもアヌラーダ・プラである。そしてコッテは移転先の町のもともとの名前。スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ、とそれぞれの意味を理解していると覚えやすいかもしれない。
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by iyasaca | 2007-04-30 15:23 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その2

1970年代初頭に至るまでのスリランカ政府の主要な対タミル政策は簡単にまとめるとこうなる。

1949年 インド・タミル103万人の選挙権剥奪(シンハラ人が国会の3分の2を得る)
1956年 シンハラ語の公用語化(タミル語が外される)
1957年 タミル人居住地域(北部・東部)に自治権を付与する協定が調印後すぐに破棄される。
1958年 反タミル暴動(150-200人のタミル人が殺害され、2万5千人が財産を奪われ避難民となった)
1959年 タミル系政党「連邦党」非合法化
1964年 インド・タミル60万人、インドに送還
1965年 タミル人居住地域への自治権付与協定(セナナヤケ・チェルバニャガム(連邦党党首))反対にあい、断念
1970年 国号をセイロンからスリランカへ変更(スリランカはシンハラ語)
1970年 タミル語メディア(雑誌、映画、書籍、ジャーナルなど)の輸入禁止
1971年 大学入試標準化政策(シンハラ人に対するAffirmativeAction(積極的差別措置))施行

特に大学の標準化政策は直接タミル人の若者に影響を及ぼした。もともと北部と東部はミッション系スクールが多かった関係で、タミル人は社会の階層を問わず、英語に触れる機会が多かった。一方シンハラ人にとっての英語はエリート層だけのもので、地方に住むシンハラ人の貧困層にとって英語は縁遠いものだった。よって、英語で行われていた高等教育機関に進学するタミル系の学生は人口比率よりも多かったのである。特に医学部や工学部などはその傾向が顕著であった。しかし政策施行の結果、タミル人の学生は減少したのである。

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<写真:LTTEが後に分離独立を主張するスリランカの北部と東部地域(Strategic Forecastより)>
さらに、1950年代から一貫して行われてきたタミル人居住地域(スリランカ北部および東部)へのシンハラ人の入植政策にはタミル側の不満は蓄積する一方であった。70年代に至るまで、タミル人の権利保護は、連邦党がリードしてきた。しかしタミル人が多く居住するスリランカの北部および東部に自治を与える連邦制を導入する試みが1957年、1965年と2度にわたり失敗したことに絶望したタミル人は、若者を中心に、より急進的な要求つまり北部および東部の分離独立を求める動きが支持を集めるようになった。そして1976年にはじめて分離独立をTULF(Tamil United Liberation Front)が訴え始める。TULFは1972年に全セイロン会議と連邦党はじめタミル系政党が結集してできた政党(結成当初の名称はTamil United Front, TUF)である。

f0008679_1848271.jpgその一方武力闘争路線の萌芽もこの時期に見られる。1972年、18歳のタミル人の少年プラバーカラン(Velupillai Prabhakaran)が「タミルの新しいトラ(Tamil New Tiger; TNT)」という小さな政治団体を立ち上げた。この少年が後にタミル・イーラム解放のトラ(Liberation Tiger of Tamil Eelam, LTTE)の指導者として、スリランカ政府と武力で対峙することになるのである。

<写真:若き日のV.プラバーカラン>

「タミルの新しいトラ」の主たる要求は、武力を背景に断続的に続くシンハラ人のタミル人居住地域への入植とタミル人の強制移動の停止であった。あわせて1971年に導入された大学入試の標準化政策によってもたらされたタミル人に不利な試験の評点方式と大学院の入学試験の改善を要求項目に含めたことで、多くの大学生を支持者に取り込んでいった。当初運動は平和裏に行われていたが、次第に武力に訴えるようになる。やがて、プラバーカランは強硬に入植をすすめるスリランカ政府に対抗するには、タミル側も武力を備えなければ立ち行かないと判断し、TNTに軍事教練を施すようになる。

f0008679_0334678.jpgTNTの武力闘争路線の第一弾は、華々しいものだった。ジャフナの市長アルフレッド・デュライアッパ(Alfred Duraiappah)を暗殺したのである。きっかけは1年前にまで遡る。1974年1月10日ジャフナで開催された国際会議開催中の騒ぎの中9人のタミル人が亡くなった。このタミル人の死に市長は直接関係がなかったが、シンハラ系政党であるスリランカ自由党に属していた市長は、ジャフナにおける権力闘争の中で、スケープゴートに仕立て上げられ、タミル人の急進派に狙われるようになった。自身はキリスト教徒であったが、ヒンズー教寺院ポンナライ・ヴァラダラジャ・ペルマル寺院(Ponnalai Varadaraja Perumal Temple)への訪問を毎金曜の夜に欠かさなかったデュライアッパ市長は1975年7月27日のその日も二人の供を連れて寺院を訪れた。市長は車を降りたところを至近距離から銃撃され、殺害された。TNTの手による最初のテロ行為であった。
<写真:ジャフナ市長アルフレッド・デュライアッパ>

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by iyasaca | 2007-03-10 00:47 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)

ジャフナにいってみた その1

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スリランカ北端の古都ジャフナまで足を延ばしてみた。かつて、タミル文化の中心であったこの100万都市も、打ち続く戦闘に人口は半減している。コロンボ・ペラデニヤ大学(旧セイロン大学)と双璧をなしていたジャフナが誇るスリランカの最高学府、ジャフナ大学も教育機関としての命である図書館が焼き払われ、現在は見る影もない。

スリランカの紛争はそれほど古い歴史があるわけではない。タミルの過激派が武装闘争に転じたのは1983年のことである。もちろんスリランカの歴史は、アヌラーダプラ王朝時代からシンハラとタミル間の王朝交代の歴史である。上座部仏教を信仰するシンハラ人とヒンズー教を奉ずるタミル人は言語も異なってはいたが、かつては民族という概念による絶対的敵対関係にはなく、シンハラ王朝とタミル王朝の間には政略結婚にまで踏み込んだ同盟関係さえも成立していた。

いわゆる「シンハラ中心主義」は英国による植民治世下において「作られた歴史」をその基礎にしている。以前のエントリーで触れた「マハーヴァンサ(大王統史)」がそれである。醸成されたシンハラ中心主義は、独立後、濃厚に国策に反映されるようになる。


1947年8月から1カ月近い投票期間を設けて行われた独立後初めての総選挙ではシンハラ系政党が圧倒的多数を占めた。スリランカの全人口の3割を占めるタミル人を代表するタミル系政党の獲得議席数は定数95議席中13議席(全セイロン・タミル会議7議席、セイロン・インド会議6議席)であった。

タミル人には、王朝時代にスリランカに渡ってきたスリランカ・タミルと18世紀にインドからプランテーション労働者として渡ってきたインド・タミルとの二つのグループがある。1947年の総選挙で国政の場に登場した二つのタミル系政党はその二つのグループをそれぞれ代表している。全セイロン・タミル会議(All Ceylon Tamil Congress)は独立前、弁護士として社会の上層で活躍したG.G ポンナムバラム代表(Ganapathipillai Gangaser Ponnambalam)が党首を務めるスリランカ・タミルを代表する政党であり、セイロン・インド会議(Ceylon Indian Congress、後のCeylon Workers’ Congress)は18世紀に英国人によって紅茶とゴムのプランテーションでの労働のために移住させられた社会の下層にあるインド・タミルを代表する政党であった。スリランカ・タミルとインド・タミルの間は、インドほどではないものの基層にあるカースト意識から同胞意識は希薄である。タミル人の内輪もめと、多数にある状況を活用し、シンハラ人はシンハラ中心主義を強力に推し進めていくことになる。

シンハラ中心主義は、1949年に成立した「公民権及びセイロン修正法」で早くもその第一歩を踏み出す。この法律の制定により、インド・タミル103万人は1931年に獲得したばかりの参政権を再び喪失した。この法律に対しては、もちろんインド・タミル系のセイロン・インド会議は反対に回ったが、スリランカ・タミル系の全セイロン・タミル会議では対応がまとまらなかった。結局、与党統一国民党(United National Party)との協調にタミル人の将来を賭けた全セイロン・タミル会議党首のGGポンナムバラムは法案に賛成した。しかしその投票行動に猛反対したS.J.V. チェルバニャガム(S.J.V. Chelvanayakam)のグループは脱党し、連邦党(Federal Party)を結成する。スリランカ・タミルとインド・タミルの共闘どころか、スリランカ・タミルの間でも分裂してしまうのである。そしてこのタミル側の迷走は、シンハラ人優位の国会構成に利してしまうことになる。1952年の第2回総選挙では、タミル系政党の獲得議席は6議席(全セイロン・タミル会議の後身タミル会議が4議席、連邦党が2議席)にとどまり、シンハラ中心主義推進の環境を整備してしまう結果となった。

f0008679_23145077.jpgシンハラ中心主義はバンダラナイケ首相(Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike)の登場でさらに加速する。1956年4月の総選挙ではバンダラナイケ率いるスリランカ自由党は、それまでの穏健路線を捨て、シンハラ中心主義を一層進める「シンハラ第一主義(Sinhala Only)」を掲げて選挙戦を戦う。さらに政権奪取を確実にするため、革命的スリランカ平等社会党(Viplavakari Lanka Sama Samaja Party)、言語戦線(Bhasha Peramuna) との3党で人民統一戦線を組織し、万全の態勢で総選挙に臨んだのである。巧みな戦略が功を奏し、スリランカ自由党は、改選前の9議席から51議席へと大躍進する。一方与党UNPは54議席から8議席へと議席を減らす大敗を喫した。シンハラ中心主義は「民意」という力を得て、過激さを増し、さらに加速することになる。
<写真:S.W.R.D.バンダラナイケ>

バンダラナイケ政権は、総選挙のわずか2ヶ月後の6月にはシンハラ公用語法を施行、シンハラ語、タミル語が公用語として併用されていた時代は終焉を迎える。タミル側の反発はときに暴動にまで発展し、社会不安が増大した。鬱積するタミル側の不満への対応策として、翌1957年7月26日にタミル人が多く居住する北部および東部にタミル人による評議会をつくることで、タミル人に一定の権限を委譲することを内容とする協定が協議された。スリランカは全国平均では、シンハラ人7割、タミル人3割であるが、北部および東部に限るとタミル人が8割から9割居住する地域である。バンダラナイケ首相とタミル系政党連邦党の首魁チェルバニャガムとの間の協定は、調印にまで至るが、シンハラ側の猛反対にあったバンダラナイケ首相は、一方的にこの協定を破棄してしまう。さらに、1958年5月23日にはタミル人が安い賃金で労働市場からシンハラ人を締め出しているとして、反タミル暴動が勃発、27日には政府は非常事態宣言を宣布し、併せて手のひらを返したように連邦党を非合法化した。

シンハラ人とタミル人の間の溝は深まる一方であった。

バンダラナイケの時代は突然幕を閉じる。首相在任期間が3年半になろうという1959年9月25日早朝、バンダラナイケ首相は私邸(Rosemead Place)に招いた仏教僧の一団との面会の際、かつてのバンダラナイケの支持者であったケラニヤ寺(Kelaniya Raja Maha Vihara)の僧侶によって派遣された若い仏僧ソマラマ(Talduwe Somarama Thero)が、サフラン色の袈裟に隠し持った銃を突如取り出し、至近距離でバンダラナイケの腹部を銃撃する。バンダラナイケは病院に搬送されるが、翌日落命する。享年60歳。

その後の政権は、基本的にバンダラナイケ首相が敷いた路線を踏襲した。暗殺後に世界初の女性首相になったバンダラナイケ夫人(Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike)は、非同盟運動で対外的に大きな存在感を示し、3度にわたって総理大臣職を務めたが、内政面においては二度のクーデター未遂や度重なる暴動事件に悩まされた。1964年にはインド政府と協議の末、インド・タミル60万人にインド国籍を与えた上でインドに帰還させ、スリランカに残った37万5000人にスリランカの市民権を賦与するなどの措置をとった。1965年には後任のセナナヤケ首相が北部・東部に地域評議会をつくり、タミル人への権限移譲を再度試みるがシンハラ側の反対にあい、断念している。1970年代に至るまでタミル人はやられる一方であったと言ってよいだろう。ここからタミル側の反撃が始まるのである。


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by iyasaca | 2007-03-05 01:14 | スリランカ民主社会主義共和国 | Comments(0)


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