勝手に僻地散歩



寸又峡温泉にいってみた

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南アルプスの南麓、寸又峡(すまたきょう)温泉にいってみた。寸又峡は全長16キロの険しい峡谷で、現在でも寸又川に洗われ、侵食が進んでいる。この辺りは古くは林業が盛んであった。しかし現在は山腹に残る、かつて木材の搬出に使われた道や橋は、観光用の遊歩道に姿を変えている。

この峡谷近くに温泉街が開かれたのは1962年(昭和37年)のことである。源泉は13軒の旅館や民宿が軒を連ねる温泉街から4キロほど山に入った場所にあり、43.7度のアルカリ性単純硫黄泉が毎分540リットル湧出している。

寸又峡温泉では三つの原則を掲げ、「日本一清楚な温泉保養地」を目指していると言う。その原則とは、
1)芸者やコンパニオンは置かない
2)ネオンサインはつけない
3)山への立て看板は設置しない
である。

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開かれて間もないこの山間の温泉街を一躍全国区に知らしめたのは、皮肉にも在日韓国人の金嬉老(きん・きろう。キム・ヒロ、権禧老(クォン ヒロ)とも)が、寸又峡の旅館で88時間にわたって人質16名を監禁した忌まわしい事件であった。

金嬉老事件として後世に知られることになるこの籠城事件は、日本における在日韓国・朝鮮人に対する差別と逆差別をめぐる些か複雑な背景がある。

<金嬉老の幼少時代>
1928年、静岡県清水に在日二世として生まれた金嬉老は近藤安広、金岡安広、清水安広などの名で少年時代を過ごした。父は朝鮮半島から出稼ぎ労働者で、清水で港湾労働者の親方として働いていた。しかし父は、金が3歳のときに事故死する。父の死後生計を支えたのは、母の朴得淑であった。金と3人の兄弟は、母がボロクズ拾いによって稼いだわずかなお金で育ったのである。

金の育ったこの時代の差別意識は現代とは比べ物にならないくらい強かったようである。作家の山本リエが行った金の母、朴得淑へのインタビューの中に当時の状況を語るくだりがカセットテープに残っている。

「私の家が昔貧乏ですごく日本の衆が朝鮮人を馬鹿にしたの。すごく馬鹿にしたのね、残った冷や飯をウジが湧いているのに、それを私に食べろと、あの飯を食べろって」

金自身も当時を回想し、
「朝鮮人が来ーた。朝鮮人はかわいそう。なぜかというと、地震のために、おうちがぺっちゃんこ、ぺっちゃんこ。やーい朝鮮人、朝鮮人」と節をつけて囃され、「集団でやるからね、それが一番こたえたね。」と語っている。

当時は、小学校の先生ですら差別意識を隠さなかったようである。2008年、79歳になった金嬉老が、小学校のとき、母が持たせてくれた麦飯に梅干一つの日の丸弁当を学校に持っていったときのエピソードをテレビ番組のインタビューで語っている。

「おかずないですよ、貧しいから。それ(弁当)開いた途端にニンニク臭い、朝鮮人はニンニク臭い。ってそれで言われるだけなら我慢できたけど、弁当をバーンと下に投げられちゃった。それで飛び散ったあれを見たときは、何にも見えなくなった、この野郎って、もうぼかぼかにやって、馬乗りになってね。それで先生が教員室から飛んできて『何をするこの野郎、本当にしょうがねえな朝鮮人は』って足で蹴ったんですよ、私を」。(2008年11月14日放送「お母さん、許してください~金嬉老事件40年目の独占告白~」、テレビ朝日より)

金は、小学校5年生で学校を中退、丁稚奉公に出るも、15歳の時に窃盗容疑で少年院に送致されている。少年院服役中に自動車整備士などの資格を取得したが、その後も定職に就くことなく、窃盗や詐欺、強盗などの罪状で逮捕・服役を繰り返す生活が続いていた。

<事件の始まり>
39歳になった金嬉老は、トラブルに巻き込まれる。知人から借りた18万円の担保として振り出した手形が回りまわって、稲川組系暴力団員の曾我幸夫の手に渡ってしまうのである。曾我は金に対して、この手形をダシに35万円の取立てを行ったのである。

金は日本全国を逃げ回るが、結局横浜で足がつき、曾我と直接話し合うことになった。約束の日は1968年2月20日午後8時。場所は、静岡県清水市旭町のクラブ「みんくす」ということになった。

金は、みんくすで曾我と子分の大森靖司ほか1名とホステスを交え話を始めるが、曾我は

「てめえら朝公(あさこう)が、ちょうたれたことこくな!」

と一蹴する。それを聞いた金は、電話を掛けると言って席を外し、店の前に停めていた車に積んでいた30発入りライフルを手に30分後に店に戻ってきた。武装した金はフロントで止められるが、「邪魔すると撃つぞ」と店に押し入り、「何だ、この野郎!」とボックスから立ち上がった曽我に向け、続けざまに6発撃ちこんだ。うち一発が心臓を貫通し、曾我は即死した。さらに同行していた19歳の暴力団員大森に向けても2発撃ち、金はそのまま逃走した。大森も搬送先の病院で死亡した。

<1968年2月20日:寸又峡へ>
金は、プリンス・スカイライン1500に乗って、日本平経由で寸又峡に向かい、「ふじみや旅館」を経営する家族6名と宿泊客10名の16名を人質にとって立て籠もりを始める。午後11時35分のことである。そして2階の六畳間に陣取った金は、畳で窓の方向にバリケードを築き、部屋の四隅にダイナマイトを置いて、「旅館ごと自爆してやる」と周囲を脅したのである。このとき傍らには実弾500発、ダイナマイト73本があった。

立て籠もりを始めるにあたって金は、人質を前にこう話したこという。
「私は死刑だと覚悟している。自分は自分の手で死刑にします。皆さんに危害を加えることは絶対にありません。ただ警察が今こっち来ますから、警察が来たら、そこで全部事実をさせるから、それ終わるまでとにかく旅館の中で自由行動でいてもらいたい。それで、私の気持ちはこれです、ここに弾をこもっています、銃をパーんとそこに投げ出して、そっちへ投げて、それで両手に土下座した」。この話は、比較的行動が自由だったという人質の証言とも符合する。

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<2月21日:立て籠もり開始>
立て籠もりを始めたまもなく金は警察に電話を入れた。午前0時10分のことである。電話の趣旨は、在日韓国人への差別に対する謝罪と掛川署の大橋巡査と清水署の西尾刑事部長に対する面会要求であった。さらに午前2時には静岡新聞にも電話を入れ、「俺は清水で人を殺した金だが・・・」と事件の経緯についても説明している。午前4時警察はふじみや旅館近くに前線本部を設置、狙撃の名手を選抜して配置する。翌朝8時には、名指しで面会要求を受けた大橋巡査と西尾刑事部長の二人がふじみや旅館に入り人質の解放交渉が始まるのである。

ここで金の掲げた条件は、この種の事件にしては異色のものであった。一つ目の条件は清水署の小泉刑事の朝鮮人差別発言についての謝罪要求、そして二つ目は静岡新聞とNHKの記者との会見であった。金は当時その思いをこう述べている。

「警察官であっても誰であっても、間違ったことを言ったり、したり、それがために、とてつもないところまでその人間を追いやったとすれば、それはあくまでもね、その責任てものを警察は男らしくとるべきだと私は思います。」(前出テレビ番組より)

一つ目の小泉刑事の差別発言が何を指すのかは金と静岡県警双方の意見が食い違い判然としない。しかし、金によると1967年(昭和42年)7月8日に清水市内で発生した喧嘩の当事者に対する小泉刑事の、「てめえら朝鮮人は日本に来てでかい面するな!」との発言を指しているとされる。 金はその発言を、喧嘩の現場をたまたま通りかかり耳にしたと言う。その後近くの朝鮮料理店から清水署の小泉刑事に電話で抗議したが、「何をこきやがるこの野郎。 てめえら朝鮮人はそのくらいのこと、言われて当たりめぇだ」と言われたとされている。しかし静岡県警側は「誰もそのような電話を受けた記憶がない」として否定している。

またこの件について金は2008年のインタビューの中で、
「(仲裁に入った警察官が)てめえら朝鮮人は日本に来てろくなことをしない。朝鮮へ帰れ、汚ねえ・・・日本の警察が取り締まりに来て、日本の若い衆はお構いなし。こっちはみんな脅かされ、蹴っ飛ばされ、手錠をかけられて、何だと。よし、これはこの問題をね、記事に書いて、政治問題にしてみせる、そう言ったら、『まあまあまあ』と言うかと思ったら、『おうやれやれ、大いにやってくれ、俺は楽しみにして待ってる』、ここまで言われて煮えくり返った」、と語っている。

<メディアのスクープ合戦>
大橋巡査と西尾刑事部長が2つの要求を携えて旅館を辞した後、メディアの大攻勢が始まる。まず日本教育テレビの「木島則夫モーニングショー」が最初のスクープを報じる。生放送中の午前9時過ぎに、番組デスクの前田実が寸又峡の温泉旅館に手当たり次第に掛けていた電話の一本がふじみや旅館につながり、しかも金本人が電話に出たのである。さらに午前9時半にはTBS報道記者の田近東吾が現場の非常線をヘリで突破し、金への直接インタビューに成功している。

午前9時50分には金の要求どおり、静岡新聞の大石記者とNHKの村上義雄記者が会見のため現れ、10時10分ふじみや旅館に入った。村上氏は金と対峙したときの様子を後にこう語っている。

「入った途端は、やはりかなりの恐怖感があった。しかし物腰は柔らかいし、口調もそんなに激しくはないし、恐怖感も消えていった」

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<写真:金の綴った日記帳>
会見は90分にも及んだ。金は切々と自らが受けた民族差別について語り、さらに要求として、射殺した曾我幸夫らの実態を公表すること、そして清水署の小泉刑事の差別発言に対する謝罪の2点であった。このとき金は二人に「遺書」と書かれた日記帳を手渡している。

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金の要求を受けて、清水署の鈴木署長は、21日午後3時にNHKで、午後3時26分、午後4時50分、午後6時50分には静岡放送で、「金さん、あなたの言い分もあるでしょう。警察も悪い点はあったと思います。 しかし、今はこれ以上、皆さんに心配をかけないことが第一です。早く自首してください」と金に対する呼びかけを行った。さらに午後11時52分にはNHKで小泉刑事が「私の扱った事件で迷惑をかけて申し訳ない。しかし、どうか関係のない人を巻き添えにしないでもらいたい」と謝罪をしている。22日の朝(06:09AM)には高松静岡県警本部長も自首を勧める訴えを行っている。

金から日記帳を受け取った村上は、「日本人自体が問われている。これは伝えなければいけない」(前出テレビ番組)との思いに駆られ、22日のNHK朝の情報番組「スタジオ102」にて、金の日記にある訴えを紹介するに至る。前年の大晦日から書き連ねられていた日記帳には、

「『てめえ等朝鮮人が日本え来て、ろくな事をしない』とか大きく恥める言葉をはいた俺がお前に電話をしたのを憶えているか。その返礼をする時が遂にやった来たようだ。俺は自分の命に代えてお前の取った態度に答えてやろう。俺の死んだ後マスコミがどんなに悪くいおうと、それは俺自身の問題で何んとも思わない。」(以上原文のまま)「ただなぜそうなったのか、そうならざるを得なかったのか、深く原因を探ってひとつの警鐘にしてもらえたら」(原文未確認)と続いている。

この放送を受け、金はふじみや旅館の主人の妻と子供3人を釈放した。午前8時半のことである。この段階で事件発生当初16名いた人質は、9名となっていた。
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<写真:ふじみや旅館に立て籠もる金嬉老>
事件発生以来、金は連日マスコミ取材に応じ、一躍世間の注目を浴びることになった。日高六郎、金達寿、伊藤成彦、宇野重吉などは「文化人グループ」を結成し、「差別の結果として生じた犯罪」として、金の行動を理解するという声明まで発表するのである。

その一方電話を掛けてきた新聞記者が投げかけた挑発的な言葉に激昂し、金が電話口で発砲する一幕もあった。当時人質だった旅館の女将の証言によると「馬鹿野郎、お前なんかすぐに捕まる」との言葉に激高した金は、旅館の主人を電話のところに連れて行き、「ここにいる人質を一人殺す」と言って一発発砲したと言う。また金によると、記者が「朝鮮人がどうのこうの」という神経を逆なでするような言葉に対し、「何をこの野郎、来るならいつでも来い」とババーンと撃ったと言っている。

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立て籠もりを続ける間、金は幾度も記者会見に応じている。
「僕だって小さい頃から、何かにつけれてもいびられてね、虐げられて、てめえら朝公がなんだと、朝公って言葉は朝鮮人を軽蔑した言葉だよね。・・・国籍が違うからてめえら朝鮮人がと、ね朝鮮人だろうと人間には変わりないですよ。」などと差別について語り続けた。

一方人質に対して金は、比較的自由を与えている。人質だった市原勝正氏によると、
「自由に動き回っていいよという感じだったですから、食事も自由にしていいってね、マージャンもやってもいいよとかね、銃を突きつけられたことも脅迫されるとかそういうこともなかったですからね」
いわゆるストックホルム症候群であるが、人質の扱いについては、民族差別の実態が報道されるまで「旅館内で自由行動でいてもらいたい」と人質に語ったとする金の回想とも符合するところがある。
<逮捕>
連日テレビ画面を占拠したこの劇場犯罪は24日、突然終演する。警察が記者にまぎれていたのである。静岡県警の若き刑事だった藤原和則(当時22歳)は当時の様子をこう語っている。
「(隣の)記者がね、『なんか刑事が紛れ込んでるみたいだ。キャップからな、紛れ込んでる様子を撮って来いと言われてんだけど、分かんねえな』て言うから、『いやそうだな、分かんないなあこれは』と相槌を打った」

午後3時25分、体調不良を訴える人質1名を解放するため、玄関に出てきた金に対し、記者に扮した私服警官一気に身柄確保に動いた。6名の警官は、玄関の奥の壁に向かって、一気になだれ込んだ。金は組み伏せられながら、「離さないとダイナマイトを爆発させるぞ」と脅しをかけるが、金の口には自殺防止のため手錠やメモ帳が口に突っ込まれた。88時間に及んだ金嬉老事件はここに幕を閉じたのである。

<公判と特別待遇>
金嬉老は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され、殺人、監禁、爆発物取締規則違反で起訴された。裁判では作家の金達寿らが特別弁護人になった。公判中も金は大いに話題を振りまいた。1970年(昭和45年)4月、金は静岡地裁での公判で、爆発物を入手したとの発言を行ったことをきっかけに行われた調査の結果、通常であれば入手できない出刃包丁、ヤスリ、ライターなどのほか、カメラ3台、望遠レンズ、テープ・レコーダー、トランジスタ・ラジオ、ベンジン、香水、金魚鉢、エロ写真などが見つかっている。さらに金受刑囚は、散歩や面会も自由、金品の持ち込みに制限がないことが明らかになった。しかも金に対するこのような特別待遇は刑務所の申し送り事項になっていることまで発覚し、これらの違法行為は特定個人による偶発的に発生したことではなく、組織的に行われていたことが白日の下に晒された。この管理体制は衆議院法務委員会でも取り上げられ、法務省矯正局長以下13名の幹部職員及び専従職員13名に対し、停職、・減給・戒告・訓告処分が下され、金に包丁を差し入れた看守に至っては、殺虫剤を飲み自殺するという事態にまで発展した。

この間、逮捕直後に「なぜ殺してくれなかった」と語り、金の死装束まで用意していた母は獄中の金に114通の手紙を送っている。字が書けない母は、当時経営していたホルモン屋の客に代筆を頼んで手紙を送っていたのである。

静岡地裁による第一審は事件から5年後の1973年6月17日に言い渡された。無期懲役であった。検察側、弁護側ともに控訴したが、東京高裁はこれを棄却(1975年6月11日)、最高裁への上告も棄却(1975年11月4日)、1975年11月25日には、提出した8通の異議申立書も棄却され、金の無期懲役は確定した。

刑務所暮らしの間も金は活発に外部世界に働きかける。ソウル在住の支援者である李在鉉氏に宛てた1978年9月8日付手紙にて「熊本刑務所内で暴行や民族的差別による村八分的迫害」を受けていると訴え、在韓日本大使館への告発を求めている。李氏が朴正熙大統領や外相に陳情書を送付し、日本政府への抗議と、金氏が早急に韓国で生活できるよう協力を要請したことを受け、韓国政府は福岡総領事館を通じ、服役中の金氏に直接事実関係を確認している。領事の聞き取りによって「実際はテレビで朴大統領による韓国軍閲兵の場面が放映された際、日本人受刑者が「おもちゃの軍隊」とからかったため、けんかになっていた」(時事コム、「「獄中で暴行、迫害受ける」=金嬉老元受刑者の手紙公開-韓国外交文書」、2010年2月22日)ことが判明、福岡領事館は、手紙に訴えられた事実は存在しないどころか、刑務所当局は、金氏に対して「格別な配慮」をもって、関係した日本人受刑者14名を分散収容するなど「満足できる措置」が取られていると結論づけた。韓国外交通商省が2010年2月22日に公開した外交関連文書によると、韓国政府は、陳情書を取りまとめた李氏に対して「了承して欲しい」と回答している。

<韓国へ>
70歳を迎えた金は、1999年(平成11年)9月7日、韓国渡航を条件に千葉刑務所から仮釈放される。通常仮釈放後は日本国内で保護観察下に置かれるが、金に対して法務省は、保護観察なしで韓国へ出国させる措置を発表した。異例の措置である。法務省は、「外国人の場合で帰国した方が更生保護に資する場合」という事例に該当するとして、韓国への出国を認めたのである。すでに金の身柄は9月5日のうちに府中刑務所から千葉刑務所に移送されており、金はそのままプサンへと発った。金の到着の様子は、「民族の英雄」として韓国全土に生放送された。到着時に金は報道陣からの問いかけに応え、「これからは、韓国語を覚えて、祖国のために働き、同胞の皆様と仲良く、韓国人らしく生きていきます」と述べた。

金のプサンでの生活は支援者に囲まれ、不自由のないものであった。仮釈放に尽力した身元引受人の朴三中によると、金は、国会議員が提供した高級マンションに入居し、日本の親類から生活費の仕送りを受けていた。

<72歳の再逮捕>
プサンでの暮らしは順調なように見えたが、金は韓国に渡航した直後、妻に600万円相当の現金と預金通帳を持ち逃げされ、翌年、殺人未遂と放火容疑で逮捕される。

きっかけは親しく付き合うようになった一人の慈悲寺(住職は金の身元引受人朴三中)の女性信徒との関係においてであった。花屋を経営していた女性信徒がある日、「あなた(金)との仲を疑った夫が私を殺そうとしている」と金にささやいたことが始まりである。義侠心に駆られた金は、2000年8月30日、女性信徒の夫を殺害するため、プサン市内のアパートに部屋にいた女性信徒の夫を長さ1メートルの竹やりで脅し、約1時間にわたり部屋に監禁したうえ、布団に火をつけるなどしたのである。その顛末はすでに触れたように、殺人未遂と放火容疑による逮捕であった。プサン地裁は、金に対し懲役2年6ヶ月を言い渡した。金の身柄は光州監護所(忠清南道)による「金容疑者は幼少時から人格障害の要素があった上、長期にわたる受刑生活で生じた合併症と韓日両国の文化的な違い、韓国語を十分に理解できないストレスなどが重なり、性格障害が現れた」との鑑定を尊重し、光州市の治療監護所に移送された。2003年には刑期を終えて出所し、2010年3月26日没。

事実だけを見れば、二人を殺害し、16名を人質にとって立てこもり事件を起こした犯罪者に過ぎない金嬉老に対して、当時の警察とメディア、そして収監中の金に対する異常なまでの迎合ぶりに、私個人は強い違和感を抱く。これは当時(今も?)の日本社会の在日に対する姿勢を典型的に示すものかもしれず、それ自体興味深い。このあまりに過剰な逆差別的な現象は、逆差別的行動と表裏にある差別感情がいかに強かったか、そしていかに根深く存在したのかということの証左とも言えよう。しかし現代においても、金嬉老事件ほど露骨な形で現れないにせよ、より巧妙な形で、いわゆる在日特権と呼ばれるような事象は克服されていないのではないか。合理的な判断を阻む、差別という問題の奥は深い。問題であり続けるその理由が私にはよく理解できないのである。

<追記>
2008年11月25日テレビ朝日が金嬉老に関するドキュメンタリーを放映した。この番組によると金嬉老は、「ライフル魔という汚名を着せられた民族差別の被害者」なのだそうである。ひどい差別を受けたから、世間に民族差別という問題を問いかけたから、2名くらい殺してもいいじゃないかと言わんばかりである。忘れてはならないのは、金嬉老は、借金を回収に来た2名を射殺し、16名を人質に取り、監禁事件を起こした犯罪者であるということである。殺人を犯さなくても民族差別と戦った人物は当時もいまもいる。仮にテレビ朝日がドキュメンタリーで民族差別解消を訴えたいのであれば金嬉老ではなく、合法的に差別と戦った人物に焦点をあてるべきであり、金嬉老にその像を投影するのはおかしい。製作者には表現の自由があるかもしれないが、放映の裁可をした放送局の見識を疑うとともに、仮にもドキュメンタリー番組という良質の報道が期待される場で、都合の良い情報だけを取り出して、一方的で偏ったものの見方を公の電波が流すということなど過去のものとして理解していた自らの認識が誤りであることを痛感した。
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by iyasaca | 2008-06-07 01:54 | 静岡 | Comments(2)
Commented by iyasaca at 2008-11-30 10:36
<追記>金嬉老事件について寸又峡のエントリーに追記
Commented by iyasaca at 2009-05-05 10:13
<追記>金嬉老事件について寸又峡のエントリーにさらに追記(2009/05/05)
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知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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