勝手に僻地散歩



カブールにいってみた その6

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<写真:カブールの夜明け>
「平和構築」という言葉は、流行り言葉のように飛び交っているが、統治能力を失った(失わせた)国家を外的な力によって再建するという作業そのものは別に新しいことではない。

ある国を攻め滅ぼした後に、自ら統治を敷くということは古くから行われてきたことである。戦勝者が自ら統治するという場合もあっただろうし、植民地(と一言で言っても多様な統治形式があったが)という形で支配を行う場合もあったであろう。江戸期の外様大名のように、軍門に降り、忠誠を誓った者に間接統治を許す場合もあるだろう。

植民地化し、被植民地の資源を搾取し、露骨に自国の利益を追求しても何も言われなかった古きよき時代が過ぎ、第一次世界大戦後の世界になると、委任統治という統治制度が発明された。国際連盟規約第22条を根拠とするこの制度は、国際連盟によって委任された国に、国際連盟理事会の監督下において一定の非独立地域の統治を許した。例えば、第一次大戦の敗戦国ドイツ帝国の植民地であったアフリカと太平洋の一部地域とオスマン帝国が支配していた中東地域にて委任統治が行われたが、実際には植民地統治とほとんど変わらなかった。

委任統治領は、原則的に国際連合下の信託統治領へと移行がなされたが、一部の地域は反発し、移行を拒否している。英国が受任国として委任統治していた旧オスマン・トルコ領パレスチナもその一つである。結局このケースは、ユダヤ人とアラブ人との間の調整に失敗し、双方から攻撃を受けるようになった英国がパレスチナ統治を断念し、委任統治の期限である1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言、現在にまで続く紛争地となった。タイ南部であれ、インド北東部であれ、パレスチナであれ、アフガニスタンであれ、現在も打ち続く多くの紛争の地で英国は何らかの形で関わっていることを考えると、罪深い限りである。その後、信託統治領も次々と独立し、1994年10月1日に米国の信託統治下にあったパラオが独立したのを最後に、信託統治領は姿を消した。

第二次大戦後、代わって主流となったのが国連PKOという仕組みである。PKOは当初、停戦合意が成立した後に、紛争当事者の同意を得て、紛争が再発防止を目的に、停戦監視などを中立的な活動を中心に実施されてきた。しかしながら、その活動の範囲は徐々に広がっていき、停戦後の復興にかかわる武装解除の監視や選挙が公正に行われるかどうかの監視、難民帰還支援などの文民活動についてもあわせて実施されるようになった。

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<写真:地雷原。写真中央の緑色に黒の十字が入っている物体が対人地雷。ほかにもいくつか落ちているのが見える>
90年代に展開したカンボジアやモザンビークでのミッションに典型的なように、国連PKOの下で軍事部門のみならず、文民部門についても幅広く任務を遂行することになり、実質的に国家運営を暫定的に担うようになった。2000年8月に出された国連の報告書(通称ブラヒミ・レポート)では、拡大するミッションに対応するため

1)紛争予防
2)平和構築
3)PKOの原則と戦略
4)PKOの任務と安保理の関係
5)緊急展開と待機制度
6)情報収集・分析能力強化
7)後方支援拡充と本部による支援能力の強化

の7つの分野について勧告がなされた。

上に挙げたカンボジアやモザンビークのほかにも例えば、シエラレオネや東チモールなどでも国連が暫定統治を敷き、軍事、文民部門の一切の運営を行った。またイラクのように国連ではなく、占領軍がそのまま占領統治を行うケースもあるが、担う役割はそれほど変わらない。

平和構築のメニューは、停戦合意後、武装解除を行い、必要に応じて憲法を含む法制度、司法制度の確立を図り、新しい治安維持機構(軍、警察)を整備しつつ、選挙を行い、権限を現地に委譲するという一連のプロセスを辿る。国の文民的機能の運営権限の委譲を受けた後も治安維持機能だけは国際社会に頼るという場合もある。

このメニューを見れば明白であるように、ここで構築しようとしている平和の先に見据えている国家像は、中央集権型国家である。例えば、停戦合意後に行われる武装解除である。アフガニスタンにおける武装解除・動員解除は、軍閥(Paramilitary含む)が対象である。そして回収された武器は、アフガニスタンの新しい国軍の武器となるのである。

しかしアフガニスタンと呼ばれている物理的空間が、中央集権的な国家を経験した時期は極めて短い。そしてカブールで「新国軍」と称して武器を回収している輩も、一歩引いて見てみれば軍閥の一つに過ぎない。にもかかわらず、軍閥の一つだけを正統とみなし、武器を回収されている軍閥の支配地域にほとんど影響力を持たない「カブール閥」に暴力装置の独占を許すということが、アフガニスタン全土の治安を確保する上で最善の道であるかどうかは疑問が残る。

もちろんカンボジアのように民族の同一性が比較的高いとされている国家であれば、中央集権化を推し進めることは確かに有益であろう。しかし、多民族国家であるアフガニスタンでも同様に効果的であるかは再考の余地がある。結局人々は「中央集権国家」、「国民国家」、「民主主義」という理念を食べて生きていくわけではない。自分の子供が無事に学校から帰ってくるか、汗水たらして働いて得た収入が誰かに不当に奪い取られないか、つまり日々の安全、周りの環境が安寧であることが最も重要なのである。理念に溺れて、人々にとって最も重要なものがないがしろにされるようでは、理念そのものから疑ってみるのが正しい思考方法だろう。

これは思いつきに過ぎないのだが、日本は自らの歴史、経験の中から、平和構築、国づくりについて新しいパラダイムを提示することができるのではないかと思っている。日本は戦国時代から江戸期にかけて、分権的な統治スタイルを260年あまりも維持した歴史を持つ。しかも、それは戦乱にまみれていた日本という空間に長い平和をもたらした成功モデルである。この移行期の政治過程を平和構築という観点で分析をすることで、多民族国家の統治スタイルのひとつのモデルを引き出せるのではないかと考えている。もう一つの日本の財産は明治維新である。発展途上国としての日本の近代化の足跡も同様に研究に値する興味深いテーマである。すでに多くの先行研究はあるだろうが、日本の国際貢献という観点から新しいパラダイムを提示すると言う作業はいまだなされていないように思う。今後も折に触れて、このテーマは追っていこうと思う。

日本はアフガニスタンの治安部門改革にて、最も困難であるDDR(武装解除・動員解除・元兵士の社会再統合)を担当した。その成否は別にして、これは欧米が設計図を引いた平和構築のモデルの一端を担ったに過ぎず、そこに日本でなければ貢献できないというメッセージを強く感じることはできない。パラダイムを転換するような発想とそれを推進する政治力がなければ、国際社会の都合のいい金づるとして利用されるだけ利用され、そして捨てられるだろう。経済力の低下は必ずしも発言力の低下を意味しない。日本は経済力があるうちに、それ以外の方法で発言力が確保できるような知的な力を備えなければならない。そのようなことをカブールで感じた。
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<写真:雪のカブール空港:サヨナラ、カブール>

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by iyasaca | 2008-03-22 20:39 | アフガニスタン・イスラム共和国 | Comments(0)
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