勝手に僻地散歩



阿寒湖アイヌコタンにいってみた

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北海道・道東への旅はここ阿寒湖で終わる。

阿寒湖の畔にあるアイヌコタンには、30あまりの土産物屋、ショーと化したアイヌの儀式の案内ポスターが並ぶ。

アイヌの人口は減少の一途を辿っている。アイヌの文化はカルチャースクールでの科目となり、アイヌ語は言語学的には「消滅に近い言語」となっている。しかし、アイヌはおとなしく衰微してきたわけではない。ここに至るまでには、アイヌの抵抗の歴史があった。

抵抗はときに暴力的になることもあった。実際、アイヌによる武装蜂起は、かなり頻繁に起こっている。しかしその記録は、すべて松前藩によるもので、文字を持たなかったアイヌ側には存在しない。そして残っている記録も決して情報量が多いとは言えない。

その記録の一つが松前藩が1646年(一説には1643年)に江戸幕府に提出した系図に松前藩の歴史を補足して編纂した「新羅之記録」(しんらのきろく)である。新羅とは、近江国の新羅明神で元服した源義光(新羅三郎義光)のことである。なぜ松前藩が新羅なのかというところに新羅之記録を読み解く鍵がある。


1646年といえば徳川三代将軍家光が、いわゆる武断政治の総仕上げに向け、幕藩体制の強化を精力的に進めていた時代であり、江戸幕府の権勢が北の辺境蝦夷地でも強制力を持って受け入れられるようになった頃である。

統制が緩かった時勢においては、松前藩主公広は、「松前は日本ではない」とキリシタン禁制の幕府の方針を半ば無視する形で、寛容政策を採ることができた。その寛容政策は、外国人による最古の蝦夷地の報告書という形でその果実を残した。1619年に松前に渡ったイエズス会神父ジェロニモ・デ・アンジェリスが、布教の傍ら、ポルトガル語で書き連ねたその報告書は、現在ローマのイエズス会本部に保管されている。

しかし、1637年に発生した島原の乱の翌年に松前公広は、江戸でキリシタン取締りを厳命され、方針転換を強いられている。さらに松前氏に対するアイヌとの両属性を指摘する声を排すため、蠣崎・松前氏の氏素性が和人の側にあるという歴史を「創造」する必要があった。そこで持ち出されたのが、新羅であったのである。

蠣崎季繁の婿養子となり後に松前藩の藩祖となる武田信廣は、若狭の守護職武田信賢(のぶかた)の子とされている。武田氏は、新羅三郎の流れを組む一族で、清和源氏の嫡流である。つまり、「新羅之記録」は、蠣崎・松前氏は源氏の流れを組む一族で、アイヌとは関係がないという歴史を提示することを目的としていたわけである。ちなみに、若狭武田家の系図である「若狭武田系譜」に武田信廣の名はない。

しかし実際の当時の状況は新羅之記録が描写する世界とは若干異なっていたのではないだろうか。現代的な意味での「民族」という概念そのものが存在しなかったこの時代に、和人対アイヌという民族を機軸とする対立構造が成立していたのかどうか。おそらく、民族間の対立というよりも、「川の向こうに敵対する部族がいる」という程度であり、それが和人だろうとアイヌだろうとあまり気にはしなかったのではないか。和人がアイヌの一部族と同盟を組み、他のアイヌと戦うということもあっただろうし、また勢力争いをめぐる合従連衡の結果、和人とアイヌとが混淆していった部族もあったのではないか。蠣崎・松前氏もそのように混淆した部族の一つであったのかもしれない。以上は推測である。

以上を踏まえたうえでアイヌによる最大規模の武装蜂起コシャマインの戦いについて、「新羅之記録」に基づいて振り返ってみる。

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新羅之記録の編纂を遡ること200年、コシャマインの戦いは、1456年(康正二年)に志濃里(シノリ)の村で起きた和人の営む鍛冶屋の主人とアイヌの少年との言い争いを発端とする。アイヌの少年の名は残っていない。劘刀(マキリ)を注文したアイヌの少年は、値段に不釣合いに悪いその出来上がりに抗議する。

時折しも大陸の明朝の衰退期にあたる。1435年には明の宣徳帝が世を去り、その勢力圏は縮小しており、この時期にアムール川流域は、明朝の版図から外れていた。かつて鉄製品の入手先であった明が消え去り、鉄製品は和人が独占してしまったであろうことから、相場が高騰していたのかもしれない。

さて、鍛冶屋の主人は少年の抗議に激高し、少年をマキリで突き殺してしまう。この事件をきっかけとして、東部アイヌの首領コシャマインが一帯のアイヌとともに蜂起する。その数は九千とも一万とも言われる。

ちなみにコシャマイン(Kosamaynu)の(ア)インは、「アイヌ」という言葉から来ており、アイヌ男性の名を正式に呼ぶ際の尊称である。17世紀に起きる武力蜂起のアイヌ側首魁のシャクシャインの(ア)インも同様である。

戦端が開かれたのは長禄元年(1457年)5月14日。コシャマイン率いる軍勢は、道南十二館の一つ志濃里館へ向かった。わずか300ほどの兵力しか持たなかった志濃里館は、ほどなく1万近いコシャマインの軍門に下る。勢いづいたコシャマインは、次いで函館も陥し、さらに西をうかがった。わずか数日間の戦闘で道南十二館のうち花沢館、茂別館を除く10館が攻略された。(道南十二館の配置は、蠣崎幕府 を参照)

コシャマインは残る二館の攻略を急いだ。そして花沢館、茂別館の同時攻略の道を選ぶ。コシャマインは副将格のタケナシに2,000の軍勢を与え、花沢館の攻略に当らせ、自らは3,000余りの軍勢を率いて茂別館攻略へ発った。残りは大館はじめ奪取した館の警備に当らせた。


戦線の崩壊は花沢館攻略に向かったタケナシの側から始まった。花沢館の館主は蠣崎季繁。その配下には27歳の武田信廣がいた。花沢館を守る軍勢は、附子矢(ぶしや、トリカブトの毒を塗った矢)による攻撃を耐え、膠着状態になった機会を捉えて、タケナシの軍が潜む森を焼き討ちし、森から逃げてきたタケナシの手勢を待ち伏せし全滅させた。

この花沢館をめぐる戦いの帰趨が潮目となった。武田信廣は、タケナシの軍勢を全滅させた後、1,500名の軍勢を引き連れて花沢館を出ると、コシャマイン軍が占拠を続けていた原口館、比石館、禰保田館には目もくれず、敵の中枢である大館へ直行し、陥落させた。

6月18日の段階では、奪われた10館のうち8館までが武田側に渡り、コシャマイン側は函館と志濃里館をかろうじて保持しているという状態であった。形勢逆転の報告を受けたコシャマインの本隊はすでに茂別館の攻略をあきらめ、函館へ拠点を移していた。

武田信廣はコシャマインが本拠を構える函館攻略にとりかかる。籠城戦による兵力の消耗を嫌った武田信廣は、何とかコシャマイン軍を館から引き出し、野戦にて勝負を決しようと試みる。戦略的決定であったのか、麾下の軍勢を掌握し切れず、士気の下がった一部兵士の突発的行動によるものであったのかは不明であるが、コシャマインの軍勢はその誘いに乗って館の外での戦いを選択する。そして函館から北5キロ七重浜近くの森にまで展開したところで、コシャマインは待ち伏せしていた武田信廣の五人張の強弓によって左胸を射抜かれる。6月20日のことと伝えられている。

コシャマインを失ったアイヌ側軍勢は、この日を契機に崩壊する。一方、武田信廣はこの軍功を認められ、蠣崎季繁の娘婿として迎え入れられる。後に家督をも譲り受け、松前藩の藩祖となるのである。

コシャマインの戦いは短期間のうちに終息したが、アイヌによる戦いは17世紀のシャクシャイン、18世紀のクナシリ・メナシの戦いなど代表的な事例のほかにも断続的に続く。

明治維新後も、同化政策が進められ、アイヌの立場は十分に保障されてこなかった。1899年に制定された北海道旧土人法が廃止されるまでほぼ一世紀を要したことに典型的なように、アイヌの苦難の歴史は続いている。その苦難の歩みの現在形が、まさに観光地と化したこのアイヌコタンではなかろうか。

それにしても、釧路を起点に反時計回りに道東をめぐる旅はこれにて終了。アイヌの歴史の一端に触れることができただけでもこのたびの目的は果たせた。

<参考>
アイヌ政策推進会議: アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の答申を受け、立ち上げられた政府の会議
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by iyasaca | 2006-12-16 00:15 | 北海道 | Comments(0)
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