勝手に僻地散歩



ナガランド州コヒマにいってみた その7

局面が極端に悪化した5月末に厳しい雨期が始まった。すでに師団の食糧、弾薬は底を尽き、戦闘どころではない状況にあった。

「食えると思うものは、何でも食ったもんね。野草だろうとなんだろうと、バナナの幹だろうと何だろうと、辺り構わずあるものはみんな食ったもんね、ほかに何もないんだから、食うものが。」(第58連隊大越正意兵長の証言、シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

「敵の死体から糧秣を求める それが唯一だったね。だから敵襲が来るというと、『おっ今晩うまいものが食べられる』と言ってさ。」(第58連隊真貝秀広伍長の証言、同番組)

補給のない師団に戦いを強要される佐藤師団長の様子を山上博少尉が目撃している。
「(佐藤師団長が)兵器、弾薬、食糧をすぐに補給しろと。そういう要求をどんどん向こうの。参謀長が来るんですよ、軍司令部のね、それに対してね、補給がなければ戦ができないと、だから補給をしなさいと、それは当たり前のことなんですよね、何もないんだから、第一線の部隊ほど切実に感じている人たちはいないわけだから。(佐藤師団長は)怒ってますよ。自分の一身をかけてね、決心するつもりでやってるから」(山上博少尉の証言、同番組)
5月下旬、佐藤師団長は補給困難を理由に「6月1日までにコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に移動する」と打電する。しかし、第15軍司令部はそれを許さない。
「烈師団は、補給困難を理由として、コヒマを放棄するとは何事であるか。さらに十日間現体勢を確保せよ。そのときは軍はインパールを攻略し、軍主力を持って貴兵団に増援し、今日までの戦功に報いる考えである。一体師団長は英霊に対してなんと思うか、以上、命に依り」
佐藤師団長は、電文の中に、その後の作戦展開についての言及を見て、
「軍参謀長の電報、確かに了解した。烈兵団に自滅せよとの意味成りとは解しない。 コヒマ重要方面に参謀の派遣もないので、状況変化に応じて、独断で処理することを承知されたい」
と返電し、兵力温存のため後退を始めることを決断し、6月1日佐藤師団長は、第15軍に対して補給の受けられる地点まで独断で後退する旨通告し、コヒマを放棄した。コヒマ包囲戦は英印軍4,000名、烈師団5,000名あまりの犠牲者を出し、終了したのである。

翌2日烈師団は、ウクルルまで後退したものの、相変わらず補給を受けられない中、司令部より、
「烈は6月8日までに祭と交替し、サンジヤックの西方へ展開完了後インパールを攻撃せよ」
との命令が下る。佐藤師団長は、
「健康体でも20日はかかるのに餓死寸前の上、一週間で行けとは何事か。善戦敢闘六十日に及び人間に許されたる最大の忍耐を経て、しかも刀折れ矢尽きたり。いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」
と返電し、さらに確実に補給の受けられる国境地帯フミネにまで後退する旨、ビルマ方面軍宛に打電する。
「師団はウクルルで何らの補給をもうけることを得ず。久野村参謀長以下、幕僚の能力はまさに士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり。したがって軍の作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、撃つに弾なく、戦力尽き果てた師団を、再び駆ってインパール攻略に向かわせしめんとする軍命令たるや、まったく驚くほかなし。師団は戦力を回復するため確実に補給を受け得る地点に移動するに決す。」

この状況に至り、軍司令部にやや迷いが見え始める。6月5日河辺中将はインタンギーにいた牟田口司令官を訪ね一時間にわたって話をしている。その内容は詳らかでないが、残っている記録の一つ、牟田口司令官の回想を引用する。
「河辺軍司令官は6月5日インタンギーに私を訪ね、戦況一般を聴取された。私は河辺中将の真を腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早作戦断念の時機であると咽喉ま出かかったが、どうしても将軍にこれを吐露する事は出来なかった。わたしはただ私の風貌によって察して貰いたかった。」(イムパール作戦回想録)

河辺中将の44年6月6日付日記にも同様の記述がある。
「牟田口司令官の面上には、なお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも、予亦露骨に之を窮めんとはせずにして別る」(緬甸日記抄録)
しかし、この会談が作戦行動に変更を与えることはなかった。6月9日には、佐藤師団を解任し、コヒマ包囲網が完全に破られた後の27日にも烈師団に対して、インパール・コヒマ間の補給路を再び遮断するよう命令を出している。

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そして7月1日、日本側だけで6万人あまりの死者を出したインパール作戦の中止が決定された。しかし、この作戦を戦った兵士にとっては、これが終わりではなかった。撤退しなければならなかったのである。多くの将兵は、撤退の途上、飢えと病気で命を落とした。雨季に入って二ヶ月、どろどろのジャングルの中を撤退していった将兵の多くは行き倒れに近い形で力尽きていった。その数は英印軍による攻撃によって落命した者の数の比ではなかった。犠牲者の特に多かったチンドウィン川までの数十キロは白骨街道、靖国街道を呼ばれる悲惨さであった。そして、今度は敗走する日本軍兵士に対し、投降を呼びかけるビラが撒かれるようになった。

「一個中隊分の米が一合で一週間なんですよね。一個中隊なら20人から30人はいますよ。米一合で一週間過ごせなんて、とてもできるもんじゃないですね。(ひとりあたり)これくらいのものですね、もう三本指でつまんだくらいのもので」(第58連隊関口栄伍長の証言、同番組)

「草取り、もう競争だ。その草を食べられるのかと言えば、分からない。飯盒の中に入れて三回くらい煮こぼして、これなら毒もないだろうと。それで米を一掴み入れて、草にぼとぼとぼとっとお粥の米がくっついて、だから蛍草(ほたるぐさ)、誰が言ったのか知らないが 蛍草」(第58連隊泰伸之兵長の証言、同番組)

あまりの状況に、自決を選ぶ兵士も少なくなかった。
「手榴弾1発が10円までいったんですよ。売ってくれって。自分が死なんがために 自殺するために手榴弾がほしい。でそういうのは兵器も何も持っていないわけですよ。みんなぶん投げてちまって。だから小銃で自分を撃つって、その小銃もないわけ。だから結局手榴弾でもってやる。その手榴弾もないから金出して買ってそれでいっしょにやる。これはね、まあ口で言うのは簡単だけど、気持ちは複雑ですよ」(第58連隊牧岡善太軍曹の証言、同番組)

極限状態に追い詰められながらも生存した兵士は、究極の選択を迫られ、現在に至るまでその選択についての罪の意識を背負っている。
「私が今こうやって話しているのはつらいです。真実をお話しするということはつらいです。戦友同士だと言いながらも自分の身が危なくなった場合には、戦友を捨てて。(負傷していた兵隊を担いでいた4人の中で)誰となく言うことは、この兵隊を担いでいけば我々は死んじゃう。『この辺で一つ可哀想だけど置いてったらどうだ』ということをありました。そして手榴弾を一発置いて、『これを置いてくよ』と『お前万が一の場合はこれで自殺しろ』と。もし私が死んで冥土というところで会えたら、まず開口一番お前年取ったな。その次に俺をなぜビルマのあんなところに置いてきたんだと言うでしょうね、そう思います。そうなったら『悪かったな、勘弁してくれや』というより仕方がないでしょう、長々と言い訳なんてしたって・・・。申し訳なかった」(第58連隊塚田善四郎の証言、同番組)

わずか3ヶ月の作戦で、参加した第31師団(烈)、第15師団(祭)、第33師団(弓)の将兵6万6,000人、そしてインド国民軍2万人の計8万6,000人のうち、3万9,000人(うちインド国民軍3,000名)が戦死した。負傷者の数は、それをさらに上回る。どの師団も半分が戦死している。各所に引用した第58連隊に至っては、4,000名のうち3,000名が亡くなった。

にもかかわらず、コヒマもインパールも占領できなかったばかりでなく、膠着状態にあったビルマ・ベンガル戦線の崩壊をもたらし、翌45年には南機関が手塩にかけて育てたアウンサンにも裏切られ、ビルマをも失うきっかけとなったのである。大本営、南方総軍、ビルマ方面軍そして第15軍首脳は、この悲惨としか表現できない作戦の結果に対する責任から免れるものではない。
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by iyasaca | 2006-08-16 20:15 | インド | Comments(0)
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