勝手に僻地散歩



ナガランド州コヒマにいってみた その6

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前のエントリーでも触れたとおり、ナガの民はモンゴロイド系である。突然現れた日本人が自分たちと姿形がそっくりであったこともあり、当初は日本人のことを親しみを込めて「アッパニーズ」と呼んでいた。しかし、補給の尽きた烈師団の将兵が、コヒマの村民の生活の糧である鶏はじめとする家畜を次々に奪ったことで、徐々に反発を買い、烈師団が撤退する頃には敬称がとれて、ただの「ジャパニーズ」になってしまったそうだ。

一方英印軍は、空路で潤沢な補給を受けていた。3ヶ月あまりの戦闘の期間を通じ、英印軍は1万9,000トンあまりの物資と1万2,000人の兵員を空路で運び込んだ。日本の優勢はあっという間に失われていった。

第58連隊の兵士の証言によると、
「(英印軍は)彼らの自由自在に好き勝手に爆撃されたわけだから、しまいにはね、もう連砲(連隊砲)撃たないでくれって。結局私らが撃つでしょう、一発撃つと、向こうは450門も揃えているから、一斉に撃つわけだから、ばーっと。もう撃たないでくれって言われちゃうんだから、小銃隊から。」(大越正意連隊砲中隊兵長の証言、シリーズ証言記録 兵士たちの戦争、「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘ー新潟県高田陸軍歩兵第58連隊ー」、NHK,2008年8月26日放送)

「ポンポンという音じゃないですよ。ただグワーといってくるだけですよ。だから何十か何百かそのくらいの砲撃がいっぺんにやってくるんですからね、それはもう絶え間なく撃ってくるくらいですよ。」(第58連隊山田義弘兵長の証言、同番組)

一方、佐藤師団長は、圧倒的な物量作戦が展開されるのを見て、第5飛行師団の田副師団長宛に
「弾一発、米一粒も補給なし。敵の弾、敵の糧秣を奪って攻撃を続行中。いまや頼みとするは空中よりの補給のみ。敵は糧秣弾薬はもとより、武装兵員まで空中輸送するを眼の前に見て、ただただ慨嘆す。」
との電文を打っている。


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この時期、兵士たちの間に一つの噂が流れる。天長節(天皇誕生日)である4月29日に一斉攻撃があり、作戦が完了するのだというものである。攻め込まれてはいたものの兵士たちの士気はある程度は保たれていたようであり、英印軍に投降を呼びかけるビラを撒くなどPsyOpも行っていた。

「絶対に日本軍は大丈夫だ、勝つんだ。負ける経験がないんだから、僕なんかも全然あとで、インパールもすぐ何日かたったら落ちるだろうと、インパールが落ちれば、占領したら物資がどんどん後方から来るからと、最初いくらやられても負けるという気持ちは10日や15日くらいは私の気持ちにはなかったような気がしますね。」(第58連隊山田義広兵長の証言、同番組)
しかし、状況は改善しない。
「29日に近い日になれば20日頃なら20日頃にね、本当だったら陥落間近だという情報が来るはずだけど、全然来ないでしょう。これはだめだなと感じがしましたね。」(山上博少尉の証言、同番組)

英印軍は徐々に盛り返し、5月13日にはコヒマの丘はほとんど英印軍に再奪取される。
完全に劣勢となった日本軍は、ついにはほぼ毎晩、突撃という強硬手段に訴えるようになる。
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突撃に討って出た兵士はほとんどが戦死したが、生き残りの兵士による証言も残っている。
「靴は音が出るんだから、靴脱いで、靴下だけになって、それから帯剣は布を巻いて、光らないように反射しないように。それで夜襲に出ていく準備なんですよ。
で、そこへ行かなければだめというのは本当に涙が出たね。これが最期の別れになるんだろうかなと」(第58連隊牧岡善太軍曹の証言、同番組)

「突撃するときは銃を持って、片方に手榴弾を持って飛んでって、安全栓は口でもってぐっと抜くんだけど、そんな暇なんかないですよ。もう抜いてあるから、ぱーんと靴の裏に当てて投げて、だからともすれば自爆覚悟でみんな行く。突撃するときは、人間そのものが狂乱になっちゃうんだね。前に敵がいれば殺すよりしょうがない。死ぬか生きるか、殺されるか生きるかの戦い
だから、何回やってもね、突撃する前、まあ我々は何回もやりましたけどね、やっぱし、友達5-6人で『じゃあよし、おいやるか』、『やろうと』、やっぱし、たばこを吸って、『もう一服吸うか』、それを吸うっていうのは、やっぱり、怖いんじゃないんだけれども、生きたいわけだ。」(第58連隊泰信之兵長の証言、同番組)
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戦闘は激烈を極めた。
「頭部は即死ですね 腹をやられるというのは一番気の毒ですね。腹とか手がもげた足がもげた、吹っ飛んでいても即死にならないから。向こうは暑いでしょう温度は40度もあるから、すぐに人間は化膿して腐ってくるわけですよ。だからもう一週間もいれば とても自分たちの壕の中にいても鼻をつままないとね。山の下から風が来るでしょ、そのにおいがね、前の方に死骸が累々としているわけだ。」(第58連隊真貝秀広伍長の証言、同番組)

前線の兵士たちが決死の突撃を繰り返している5月中旬、ビルマを視察した大本営の参謀は、「作戦は不成功と判断して間違いない」と首脳部に主張する。しかし首脳部が行った東条英機参謀総長への報告は「作戦は極めて困難」という言い回しに、修正され伝えられる。そして、東条参謀総長は昭和19年5月16日、「現下における作戦指導と致しましては、剛毅不屈、萬策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます。」と天皇陛下に上奏する。

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コヒマ包囲戦で、最後の、そして最も激烈な戦闘はギャリソンヒル、DCのバンガローとテニスコート周辺で行われた。戦闘は激烈で、ギャリソンヒルの北東方面のテニスコート〔ナガランド地区Charles Pawsey弁務官の邸宅〕では、両サイドから至近距離で手榴弾を投げ合うなど、死闘が続いた。今はすでにないが、当時はテニスコート脇に大きな桜の木が立っていた。その桜の木の上からは烈師団の狙撃手が攻め込んでくる英印軍の兵士を狙撃していたが、その狙撃手も最後は力尽きた。今はその跡に小さな桜の木が植林されている。

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今は博物館のあるギャリソンヒルの南の丘の上には、烈師団が残した歩兵砲が保存されている。昭和十三年に大阪で製造された九十二式歩兵砲との刻印が読み取れる。砲身だけで105キロあるらしい。飢えに苦しみながら、インドの奥地の山の上までこんなものを引っ張ってきたという事実に圧倒される。
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by iyasaca | 2006-08-16 19:36 | インド | Comments(0)
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知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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