勝手に僻地散歩



石舞台古墳にいってみた その4

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<図:飛鳥京絵地図、国営飛鳥歴史公園HP
最後に石舞台古墳の被葬者として最も有力な蘇我馬子の死にかかわる日本書紀の記述を確認してみる。該当する箇所は、推古天皇34年(626年)5月の条にある。そこには、以下のように記述されている。
卅四年春正月、桃李花之。三月、寒以霜降。夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。

意訳すると、34年春正月、桃、すもも(李)が花開いた。3月は寒く、霜が降った。
夏5月20日、大臣が薨れた。桃源墓に葬った。大臣は稲目宿禰の子である。性質として武略があり、また明察の才があった。三宝(仏教)を恭敬し、飛鳥川の傍らに家があった。庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋をつくった。それで当時の人から嶋大臣といわれていた。

とある。

飛鳥川の傍らにあった馬子が邸宅を構えていたという日本書紀の記述、石舞台周辺に今も残る島庄という地名、そして今は石舞台古墳の有料駐車場になっている島庄遺跡から検出された大型掘っ建て柱建物と方形池跡など日本書紀と符合する点などを総合的に考えると、石舞台古墳一帯は、蘇我氏に縁のある場所であったと推認することができる。

これらを踏まえて再度被葬者像に迫ってみたい。直接的証拠は見つかっておらず、全ては情況証拠である。

1) 築造の場所が島庄という蘇我氏ゆかりの土地である[近くに日本書紀の記述と符合する一辺42mの大型掘立柱建物と深さ2mの石張り方形池の遺構(島庄遺跡)が発掘されている]

2) 作られたばかりの古墳を削って、より大きな古墳として築造されている
 (ア) わざわざ古墳群があった場所にこだわって築造されている。
 (イ) 小規模古墳が削られていることから、元の被葬者より格上の影響力を持っていた人物
 (ウ) 一辺50メートルという当時では最大級となる古墳の大きさ。

ちなみに、6世紀末から7世紀中ごろの築造された一辺50m以上の方墳は、春日向山古墳(用明天皇陵66x60m)、山田高塚古墳(推古天皇陵、66x58m)、塚穴古墳(来目皇子墓、54x54m)、シシヨツカ古墳(大伴一族?、60x53m)だけである]。通常方墳は最大30歩(41.1m)という規格とされていたようだが、有力者にはそれを超える規格での築造が許されていたようである。石舞台は36歩と規格外の大きさである。

3) 早い時期に墓が暴かれ、墳丘が全て取り除かれるという激しい行為を受けていることから、大きな恨みを買っていた人物と推定される。

最後に喜田が「蘇我馬子桃源墓の推定―ケブの大石☓、島の庄の石舞台の研究」「歴史地理第19巻第4号に書いた文章を引用したい。
種々の事情を綜合して而して之に対して此の墓が斯く日本に一二を争ふ程の巨大なるものなりとの事実は桃源墓との此の石舞台とを接近せしむるに十分有力なる証拠となるべきものなりとす。
石舞台古墳の被葬者についての研究は、20世紀以降の調査の蓄積をもっても、1912年に喜田が到達した地点を補強する状況証拠が得られただけという水準にとどまっているようにみえる。
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by iyasaca | 2015-05-02 00:00 | 奈良 | Comments(0)
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