勝手に僻地散歩



ナコーンシータマラートにいってみた その2

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ナコーン・シー・タマラートは、時期により、または言語により、さまざまな名前で呼ばれていた。この地域を示す最も古い名称はタンブラリンガ(Tambralinga)である。この名称は2世紀ごろから使用されてきた。同じく2世紀のものと伝えられるインドに残るパーリ経典ニデッサ(Niddesa、義釈)に、カマリング(Kamaling)との表記も見られる。さらに言うならば、タミル語では11世紀にマダマリンガム(Madamalingam)、シンハラ語ではタマリンカム(Tamalinkham)、宋王朝時代の中国ではTan-llie-mei、16世紀アユタヤ王朝時代にはポルトガル商人からリゴール(Ligor)と呼ばれ、現在のナコーンシータマラートという表記が初めて登場するのは、スコータイ王朝まで待たねばならなかった。しかし現在でもその英語表記は、Nakorn Sri ThammaratやNakhon Si Thammaratなど幾通りもあり、統一されていない。

さて、シュリビジャヤ王国の衰退にともないタンブラリンガはその版図から脱する。その後、ほどなくしてスコータイ王国の支配下に入るが、13世紀には12,000人もの僧侶を擁するマレー半島の上座部仏教の一大中心地へと成長し、繁栄の頂点に達する。その中心地で最高レベルの仏教教育の場を提供したのは、ワット・プラマハータート寺院(Wat Phra Mahathat Woramahawihan)である。そして、この寺院を通じて、スリランカ系の大寺派上座部仏教はスコータイへ伝えられたのである。

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寺院の歴史は2世紀にまでさかのぼる。
ある日、南インド地方の一都市タナタ・ブリ(Thanatha Buri)に仏陀の歯が持ち込まれた。その噂を聞きつけた周辺国の王は、その仏歯を分け与えて欲しいと申し出たが、タナタ・ブリのコシハラート(Khosiharat)王は、王権の象徴たる仏歯の分与の申し出を二度にわたり拒否した。 その対応に激怒した周辺国家は、タナタ・ブリ攻略のため兵を挙げ、攻め落としてしまう。陥落直前、コシハラート王は仏歯を自分の娘ヘムチャラ王女(Hemchala)と息子のタナタ・クマーン王子(Thanatha Kumarn)に譲り渡し、スリランカへ逃げることを命じた。

数名の召使を随行させ、一路南の小島スリランカを目指したヘムチャラ王女とタナタ・クマーン王子を乗せた平底帆船は、その途上、嵐に遭い沈没してしまう。王子と王女は帆船の木片につかまり、何とか現在のタイ南部、トラン(Trang)の浜辺に漂着した。たどり着いた浜辺がスリランカであると勘違いした二人は、そのまま半島を東に横切り、タイランド湾にたどり着いたところで、王女の髪の中に隠していた仏歯のかけらを浜辺に埋め、その上に小さなステューパを建立した。王子と王女はその功徳が認められ、ヒンドゥー三柱神の一人で創造神マーハ・ブラーマの祝福を得て、無事にスリランカに渡ったと伝えられている。

時代は下って12世紀、シー・タマ・ソカラート王(Si Thamma Sokarat)は、この地のどこかに仏歯を収めた仏塔があるとの話を聞きつけ、捜索の末、ついに見つけ出す。そして1176年、シー・タマ・ソカラート王はその小さな仏塔の跡地に、巨大な釣鐘状の仏塔を建て、周辺に多くの寺院を建立し、ワットプラマハート寺院と命名した。仏塔の建立にあたっては、スリランカから多くの職人を呼び寄せている。そのせいか、同時期に建立されたスリランカ・ポロンナルワのキリ・ヴェハラ仏塔との類似性が認められる。

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中心の仏塔の真下には、プラ・ソン・マー堂(Phra Song Ma Congregation Hall)が建てられている。内部は一面が漆喰で塗り固められ、馬上にあるシタッター王子(Prince Sithatttha)の彫像ほか、インドラ、ブラーマなど神々の像が静かに仏歯を護っている。お堂の中心には、仏塔へと続く階段がある。

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階段を上ると巨大な仏塔の真下に出てくる。修行僧が瞑想をしながら、仏塔の周りを歩けるスペースが広がっている。時計回りに歩かねばならないそうだ。

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中心の仏塔の周辺には、多くのお堂が建てられており、広大な寺院を形成している。そのひとつ、コット堂(Khot Congregation Hall)は、中心の仏塔を四方から囲むように建てられている。一辺には173体の仏像が鎮座している。 もともとこのお堂は、修行僧が説法の前にお経をあげる場として使用されていた。現在はごくたまに、宗教上の儀式が執り行われるだけである。

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寺院の中心に聳える55.78メートルのスリランカ様式の仏塔を擁するワット・プラマハータート寺院は、今でもタイの7大寺院(Maha Chedis)のひとつに数えられ、タイ南部で最も高い權威を誇る寺院として、町のシンボルであり続けている。
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by iyasaca | 2006-05-13 22:28 | タイ王国 | Comments(6)
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:08
ナコーンシータマラートの名称の変遷は以下の通り。
Kamaling, Tamaling, Kamali, Tamali:パーリ語。インドに残る2世紀の文献Niddesaに見られる表記。当時の冒険家が富を求めて南海地方を探索した際の記録が残っている。
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:08
Madamalingam:タミル語。1030年から31年のものと伝えられるTanjore碑文に残っている。南インドを支配していたRajendrachola王が1025年にスリビジャヤ王国のいくつかの都市を攻略するために、大船団を編成したという記述の中に見られる表記。Tanjore碑文には11世紀当時のタンブラリンガが重要な通称拠点として、スリビジャヤ王国の支配下にあったとの記録が残っている。
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:08
Tamalinkham:シンハラ語。Jena text of Lankaに記述がある。また1382年に書かれたElu Attanagalu-Vamsa書簡にもTamaling-khomuとの表記が見られる。
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:09
Tan-lieu-mei, Tan-ma-ling, Tan-mei-liu, Ju-mei-liu:宋王朝(960年ー1279年)時代のChao Ju-kua によるとTan-ma-lingは堅牢な要塞が築かれた城壁都市であり、市民は移動に水牛を用いていたという。髪は束髪に結い、靴を履く習慣もなかったという。高官の居宅は、木造であったが、庶民は竹や籐でできた家に住んでいた。Bee wax, 高級木材、樟脳、象牙、サイの角などを産出し、海外からは傘や絹、酒、塩、陶磁器、土器、銀、金などを輸入していた。
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:09
Ligor:1518年アユタヤ王朝初期にポルトガル商人が使っていた名称。Lagor-giとも呼ばれていた。
Sirithamnakhon:1517年に北タイの年代記Jinakatamali of Lan Naに見られる表記。
Commented by iyasaca at 2006-05-14 18:09
Nakhon Si Thammarat:スコータイ王朝のRamkhamhaeng王のno.1碑文に初めて登場。アユタヤ王朝でも同じ表記が使われていた。
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