勝手に僻地散歩



旧青木周蔵那須別邸にいってみた

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那須野ヶ原の原野に佇む白亜の洋館、旧青木周蔵那須別邸を訪ねる。

明治にあって那須野ヶ原は、いわゆる華族牧場のメッカであった。1880年代以降、大山巌、毛利元敏、松方正義、乃木希典、山県有朋ら明治の元勲らが、殖産興業下における農業振興を先導するように次々と大農場を拓いていった。その中でも青木周蔵が1881年(明治14)、37歳の時に開設した「青木開墾」(1,576ha)は、松方正義の千本松農場(1,640ha)に次ぐ規模を誇った。

青木周蔵は、この広大な農場の管理拠点と避暑地邸宅として、ドイツ帰りの建築界の泰斗、松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)に設計を依頼、1888年(明治21)に竣工している。

松ヶ崎は1871年(明治4)、13歳の時に岩倉使節団とともに渡欧し、12年にも及ぶドイツ滞在中にベルリン工科大学にて建築を学んだ後に帰国、日本建築学会の前身、造家学会設立にも創立メンバーとして参画するなど日本近代建築の祖とも言うべき人物である。松ケ崎は、仙台の七十七銀行本店などを設計した後に、台湾に拠点を移し、台湾総督府交通局鉄道部、新竹駅、台北西門市場などの設計を手がけたが、多くは現存しない。この旧青木周蔵那須別邸は、国内に残る松ヶ崎設計の唯一の作品である。

f0008679_10242391.jpgさて、青木周蔵は長州藩西南部の吉田宰判土生村小土生(おはぶ)の地下医三浦玄仲の長子として1844年(天保15)に生を受ける。幼名は三浦團七であった。

1864年春に長州藩校明倫館好生館が陪臣、地下医にも開放されると團七はすぐに入門する。才気あふれる少年であったのであろう、翌年11月に、好生館教諭役で蘭学者の青木研藏の養子となり、青木周蔵に改名する。このときに大村益次郎が周蔵の語学力(オランダ語)を褒めたという話が残っている。

長崎にてしばし滞留した後、1868年(慶応4年)、24歳のときに長州藩留学生として3年分の費用1,575両を携え、ドイツに医学留学をするのである。

<写真:青木周蔵>

周蔵は奔放な人物であったようである。青木家に入る前の話は後年の回顧録にあるほかはあまり伝わっていないが、留学後から晩年に至るまで彩り豊かな人物であったことを物語るエピソードが尽きない。周蔵はもちろん対英条約改正交渉を始め、大いに大日本帝国に貢献した人物であるが、ここでは人間らしいエピソードを中心に紹介したい。

周蔵は藩留学生としてドイツに渡ってほどなく藩に相談することなく、政治経済学へと転籍をする。藩費での医学留学のため、この「勝手な」行動は騒動となる。この騒動は山県有朋の助けを借りて、何とか収まるが、その後も1872年(明治4)にも北ドイツ留学生総代となった後も在独留学生の専攻科目に容喙したりするなどして不興を買うなど活発であったようだ。

1874年(明治6)に30歳で帰国した後も、青木家との関係は微妙な状態であった。後見人とも言える木戸孝允が青木家より伝えられる不満(医師の家に入りながら、医学を放棄し、義父、義母の死に際しても連絡も寄越さなかったなどという苦言)を周蔵に伝え、幾度も萩に出向くよう説得するも、周蔵は結局一度もその意に沿うことはなかった。一時期は青木家より離籍するという話まで出るほどであった。

f0008679_1913267.jpg公使としてドイツに再び渡った後も周蔵は期待を裏切らない。青木家の養子という立場のまま、何とプロイセン貴族であるエリザベート(へルマン・カール・アルベルト・フォン・ラーデ、母はブランデンブルク家出身のクレメンティヌ・ヘンリエッテドの子)と結婚してしまうのである。


<写真:エリーザベト・フォン・ラーデ・フンケンハーゲン>
1886年に帰国した周蔵は政界に転ずる。1889年の第一次山県有朋内閣における外務大臣就任を皮切りに、松方内閣、第二次山縣内閣でも外務大臣を務めることになるのである。この外務大臣時代にも、周蔵らしさが見られる騒動を起こしている。1891年5月に発生した大津事件の対応をめぐる失策である。

大津事件とはロシア帝国ニコライ皇太子が大津にて滋賀県警察部津田三蔵巡査によって切りつけられ、右側頭部に9cm近くの傷を負わせた事件である。

この事件の処理をめぐって、犯人の死罪を強く要求していたロシア側は、政界の有力者に強く働きかける。当時外務大臣であった周蔵もその1人であった。ここで周蔵はロシア公使シュービッチに対し、犯人の死刑、つまり旧刑法116条大逆罪の適用を約束してしまったのである。

ちなみに旧刑法116条とは、
「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
とある。三后とは、太皇太后、皇太后、皇后のことである。

しかし大審院(現在の最高裁判所)は、旧刑法116条は日本の皇族にしか適用されず、外国の皇族は想定されていないとし、旧刑法292条一般人に対する誅殺未遂罪が適用され、襲撃犯の津田への判決は死刑ではなく、無期徒刑(無期懲役)となった。

この判決に憤激したロシア公使シュービッチは、周蔵との密約を公表する。これが、いわゆる公書問題である。この暴露に際して周蔵は「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と逃げ口上を図ったことが事態をさらに悪化させる。伊藤が「ロシア側の真意を確かめよと指示しただけ、政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職する」と反論したところ、周蔵はさらに「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言、大騒動となってしまう。そして、すったもんだの末、結局自身が外務大臣の職を辞することになったのである。

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さて旧青木周蔵那須別邸である。設計当初は、中央の2階建てのみであったが、その後東西に付属棟、東棟、西棟、中央棟屋上の物見台が1909年(明治42)に増築され、今の姿となった。写真では小さいが、最大の特徴は外壁を全て覆った鱗型のスレートである。

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ここは一階の一角にある浴室である。バスタブのほかにスツールが置いてあったという。随分小さなバスタブである。
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二階のスペースは、最も古い部分である。これまた小さな鉄製のベッドが2つ並んでいる。すでに残っていないが、窓際には水差しとホーローの洗面器を備えた机が置かれていたらしい。印象的なのは、暖色系の光を放つ球状の照明である。この形は邸宅にあるすべての照明に使われている。

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手前に見えるブリキ製のつづらは、もともと屋根裏にあったものである。よく見えないがつづらの蓋には、周蔵の娘ハナの夫の姓である「ハッツフェルト」と墨書されている。これはハナの家族がドイツ→東京→那須を移動する際に使用していたとのことである。

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<写真:青木邸に至るアプローチに立ち並ぶ杉並木>
青木は、農場の従業者の子弟のために小学校をつくったりするなど、地元に大いに貢献した。また避暑に訪れた際には、鹿狩りを楽しんでいたとの話も残っている。

エリザベートは周蔵の死後、ドイツに帰国してしまったが、地域の人に青木邸と呼ばれていたこの邸宅は、1960年代半ばくらいまで青木家の別荘として使われていた。

東京での喧噪から離れ、ドイツで過ごした豊かな時間に思いを馳せることのできたであろうこの空間も、主を失ってから時を経て、1989年に栃木県に寄贈された。その後に行われた1996年から1998年の解体修理の際に元の場所から南東に50メートル離れた現在の場所に移築、99年12月21日に重要文化財に指定されている。
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by iyasaca | 2013-11-10 20:48 | 栃木 | Comments(2)
Commented by 通りすがりの者です at 2015-05-09 17:47 x
お邪魔します。
「マッサン」も後半になったころ、“青木周蔵の奥さんも外国人だったなぁ”と思い出し、いろいろ調べますと、
「マッサン」的要素?があってビックリ!※マッサンより50年早い国際結婚、エリザベートは妾にしろ、日本にビールを勧める。ただ、外交官として長く日本にいなかったので、エリザベートがエリー並みに苦労したかは疑問。
青木周蔵は」とりあえず(?)地元の偉人です。でも特に
興味ありませんでした。ここに書かれているようなこともあるし…。
大津事件のそんなことがわかって面白かったです。
ありがとうございました。
Commented by iyasaca at 2015-05-10 19:46
通りすがりの者ですさん、コメントありがとうございます。青木周蔵の自由奔放ぶりは羨ましい一方、周りの人はさぞや大変だったろうと思います。周蔵が生きた時代は、寛容でしたね。
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