勝手に僻地散歩



ナコーン・シー・タマラートにいってみた その1

f0008679_3514544.jpgサンスクリット語で「正法王(ダルマラージャ)の治める都」(ナガラ・スリ・ダルマラージャ、Nagara Sri Dhammraja)との意味を持つマレー半島中部の古都ナコーン・シー・タマラート(Nakorn Si Thammarat)は、古くからインドと中国をつなぐ海洋交易の中継地であった。

7世紀当時、マレー半島、スマトラ島一帯は、大乗仏教を奉じるシュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝)の支配下にあったと言う。しかし、大いに栄えたと伝えられるこの仏教王国の歴史は、稀に見つかる碑文や中国に残る朝貢の記録など断片的な資料から推測するほかなく、その起源、滅亡の時期すら多くの説がある。何しろ、石碑に刻まれた「室利仏逝」という文字がシュリーヴィジャヤに対応するものだと分かったのが20世紀初頭のことでしかないのである。20世紀初頭に活躍したフランスの歴史学者ジョルジュ・セデス博士(George Coedès)の功績である。

当時をうかがい知る貴重な資料の一つとして、唐の時代の僧侶義浄(635~713)が書き残した紀行文がある。義浄は「室利仏逝」滞在中の689年(永昌1年)、以前に見聞したインドや東南アジア地域30か国の仏教徒の生活や規律などを40章にわたり書き記し、691年に「南海寄帰内法伝」:(なんかいききないほうでん)として長安に託送した。それによると、室利仏逝はインド仏教の総本山であるナーランダに匹敵する仏典研究の拠点で、1,000人にものぼる僧侶が日々、教義の研究、仏典の漢訳などに勤しんでいたと言う。学習科目、規則、儀式についてもインドと全く同じであり、義浄自身も室利仏逝で半年間にわたり、サンスクリット語を勉強している。

義浄は室利仏逝は城壁に囲まれた町であったとも書き残している。このことは室利仏逝が軍事的にも重要な都市であったことを示唆している。まさに室利仏逝は軍事、交易、学問の中心地であったわけである。義浄が立ち寄った「室利仏逝」はスマトラ島のパレンバン(Palembang)ともマレー半島のチャイヤー(Chaiya)とも言われているが、どちらの説にも決定的な証拠が残っていない。

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長安から交趾、チャイヤ、ナコーンシータマラート、パレンバン、ニコバル諸島、そしてインドへという道のりを視覚化するため、あえて大判の地図を載せてみた。マラッカ海峡に出没する海賊のリスクを避けるため、ナコーンシータマラート周辺が海上交易の経路として利用価値が大きかったと思うが、どうだろう。
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by iyasaca | 2006-05-03 03:31 | タイ王国 | Comments(0)
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知ることで景色が変わる。誰にも頼まれてないですが、あちこちにいってきます。
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