勝手に僻地散歩



マーシャル諸島にいってみた その5

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<写真:かつて南洋櫻と呼ばれたフレームツリー>
-戦争から敗戦と撤退-
1933年3月に日本は「日本軍の満州撤退勧告案」の採択に反対し、国際連盟を脱退する。米国との対立も深まるなか、クェゼリン、ウォッジェ、マロエラップ、ジャルートの要塞化を始めた。要塞化は、その後ミリ(Mili)、エニウェトクの環礁にも及んだ。ハワイ、ウェークなどへの攻勢を念頭に置いた動きであった。

米国の太平洋諸島への反転攻勢は1942年6月5日のミッドウェー海戦を機に始まる。1942年2月1日の米国機動部隊の攻撃は何とかしのいだものの、反転攻勢が本格化した43年12月5日のマーシャル諸島沖航空戦以降は、一方的にことが進む。

すでに43年にアッツ、タラワ、マキンを失っていた日本は、マーシャル防衛のため、マロエラップ、ウォッゼに重点的に守備隊を配置した。しかし、米軍はマロエラップ、ウォッゼには目もくれずに、防備の手薄なクエゼリンを攻撃目標に定めた。

マーシャルには44年の段階で、日本陸軍海上機動第一旅団第二大隊1,020名を中心に、海軍所属の第6根拠地隊付属陸戦隊と第61警備隊所属など軍人軍属合わせて5,210名が守備についていた。だいたいの内訳は以下の通り
第6根拠地隊本隊 80名(第6根拠地隊司令官 秋山門造少将)
第61警備隊1,500名(第61警備隊司令 山形政二大佐)
第6通信隊400名 
第6潜水艦基地隊200名 
海上機動第1旅団第2大隊基幹 1,020名(海機第1旅団 第2大隊長 阿蘇太郎吉大佐)
また司令部には来島中の海機第1旅団参謀の伊藤豊臣少佐がいた。 

43年11月に第6根拠地隊司令官に着任した秋山門造海軍少将は、海岸沿いにトーチカや戦車壕の構築を命じたが、珊瑚礁であるクエゼリンで地下陣地を構築できるわけもなく、椰子の木で掩蔽壕を作るのが精一杯であった。その他の防御用陣地も米軍攻撃開始までにはほとんど完成できなかった。

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<写真:クエゼリン環礁全図。米軍は環礁の西端より上陸。中央部に飛行場、その北東には司令部があった、Wiki Commons, Public Domain>
リッチモンド・ターナー中将の指揮によるクェゼリン攻略が始まったのは、1944年1月30日のことであった。米軍はこの作戦に、戦艦4隻を背後に、輸送船20隻を配置、水陸両用兵員輸送車240両、水陸両用戦車74両、上陸攻撃部隊5万3000人、守備部隊3万1000人を投入した。上陸作戦は、B-24爆撃機による空爆で始まった。第一波は午前3時25分。B-24爆撃機15機、第二波は午前4時45分にB-24 60機、そして午前9時には120機による三次にわたる空襲が加えられた。

翌31日も三波にわたる空爆が行われた。完全に制空権を握っていた米軍はまともな反撃も受けることなく、一方的に爆撃を加えた。日本は環礁内に停泊していた輸送船を全て失い、地上の施設もほぼ全て無能力化された。空からの攻撃が一段落すると艦砲射撃も本格的に行われた。3000メートルほどの距離から40センチ砲を撃ちこむため、「命中しないのがどうにかしている」というほどの精度で地上施設が破壊され、守備隊の5分の1が死傷した。この段階で第6根拠地隊は暗号文書などの焼却を始めている。勝ち目がないことは分かっていたのである。米軍はこの間にクエゼリンに最も近いエヌブ島に48門の火砲を陸揚げしている。

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<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン上陸作戦、National Park Service, US Dept of the Interior, Public Domain>
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<写真:米軍第七歩兵部隊によるクエゼリン攻略、archives.com, Public Domain>
2月1日早暁、ついに上陸作戦が始まる。艦船の支援射撃を受けながら、戦車を先頭に西海岸の上陸地点に到達した米軍は、日本守備隊の決死の防戦に苦戦する。秋山門造司令官より「各隊は一兵となるまで陣地を固守し本島を死守すべし」との指令を受けていた守備隊は健闘し、米軍は正午近くになっても500メートルほどしか前進できないほどであった。

しかしこの日の夜、秋山司令官は前線視察のため、司令部壕を出た瞬間、艦砲弾の破片を被弾、即死する。にもかかわらず、守備隊の士気は下がらず、その日の夜半、阿蘇太郎吉陸軍大佐麾下の機動大隊と第61警備隊は、夜襲をかけ、一時期は米軍を水際近くまで撃退する。しかし前日にエヌブ島に陸揚げされていた火砲と艦船からの集中攻撃を浴び、陣地確保はならず、ほどなく退却を余儀なくされた。

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<写真:クエゼリンで降伏する二人の日本兵、2月2日頃、RWP>
2月2日には飛行場の東側の陣地をめぐる戦闘が続き、日本守備隊による戦車への体当たり攻撃など玉砕攻撃も始まる。守備隊による抵抗は翌3日も続いたが、圧倒的な戦力を前に死傷者の数は増えるばかりであった。4日の夜明けあたりから日本軍の陣地が戦車に突破されるようになり、ついに2月4日午前10時、海軍首脳部は司令部作戦壕で自決した。その後、阿蘇大佐率いる残存兵も敵中に突撃し、玉砕した。米軍はその後残存兵の掃討作戦に入り、翌5日午前零時30分、米軍が島の北岸に到達したことをもって、米第7師団長コーレット少将は組織的抵抗が終了したことを宣言した。日本側の戦死者は4,800名あまり、その中には臣籍降下していた朝香宮鳩彦王の次男、音羽正彦少佐も含まれる。生存者はわずか263名であった。そのほとんどは設営労務者であった。対する米軍の死者は177名、死傷者まで含めると1,214名、死傷者の比較で言えば一方的であったが、激戦であった。

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<写真:クエゼリン環礁で手榴弾を投げ、進軍する米軍4th Division, RWP>
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<写真:クエゼリン、2月2日頃、 National Archives、Public Domain>
一方マジュロは守備隊が配置されておらず、2月1日にハリー・ヒル少将指揮の部隊に上陸され、あっさり占領されている。 米軍は、クェゼリンを空軍基地とし、そしてマジュロを航空母艦基地として整備し、カロリン諸島攻略の重要な起点とした。その後44年7月にはサイパン、44年9月にはグアム、テニアン島、45年3月には硫黄島と日本の玉砕が続くことになるのである。グアム・サイパンは日本の本土空襲の拠点となり、そしてテニアン島は、広島・長崎の原爆搭載機が飛び立つ基地となるのである。

クエゼリンの戦闘の帰結が内地に伝えられるのは戦闘終了から約3週間後の2月25日である。大本営は午後4時に、こう国民に伝えた。
「クェゼリン島竝(ならび)にルオット島を守備せし約四千五百名の帝国陸海軍部隊は一月三十日以降来襲せる敵大機動部隊の熾烈なる砲爆撃下之と激戦を交え二月一日敵約二ヶ師団の上陸を見るや之を激撃し勇戦奮闘敵に多大の損害を与えたる後二月六日最後の突撃を敢行、全員壮烈なる戦死を遂げたり。ルオット島守備部隊指揮官は海軍少将山田道行にしてクェゼリン島守備部隊指揮官は海軍少将秋山門造なり。尚両島に於て軍属約二千名も亦(また)守備部隊に協力奮戦し全員其の運命を共にせり」

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by iyasaca | 2009-06-06 12:42 | マーシャル諸島共和国 | Comments(9)
Commented at 2009-08-16 16:12 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2009-08-16 16:31 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2009-09-03 03:54
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 十楽人 at 2010-04-02 13:27 x
私は、父がクエゼリンで戦死しており、94年8月に慰霊団に参加し、同島(およびマジュロ、ルオット)を訪れています。本当に戦場には似合わない美しい海と環礁を見るにつけ、無駄な戦闘で死んでいった父たちのことを偲び、無念な思いが高まってしかたがありません。なお、この戦闘で、石橋湛山氏の子息も戦死しています。一般的には知られていないこれらの島にiyasacaさんが行かれた動機は何であったのでしょうか。いささか興味のあるところです。
Commented by iyasaca at 2010-04-03 14:14
十楽人さま。コメントありがとうございます。仰る通り、日本から遠く離れたあの青すぎる海で、わが国の未来のために闘い抜かれた先人に思いを馳せると言葉もありませんでした。ただ明け渡しただけのマジュロではなく、クエゼリンも自分の目で見てみたいと思っていましたが、御存知の通り、現在は米軍基地で、飛行機から降りることもかないませんでした。
さて目を見開いて、「これが訪問の動機だ」と言えるものはないのですが、あえて言うならば、一般的に馴染みが薄い、いわゆる僻地を訪ね歩くことが好きであるということくらいでしょうか。要するに趣味の世界です。
Commented by 十楽人 at 2010-04-03 16:58 x
responseありがとうございました。私たちの場合は、慰霊団ということで米軍も特別な配慮をしてくれており、ルオット島へも米軍機を提供してくれました。もともとクエゼリン島はもっと椰子の樹が茂っていたはずですが、今や“つわものどもが夢のあと”を偲ばせる風景ではありません(戦後数年、偶然見た映画、「機動隊」にクエゼリンを空爆する実写がでてきてびっくりしたことがあります)。ただ、これも米軍の好意で島の一角に、鳥居と慰霊碑が建てられているのが、せめてもの慰めではあります。私は、今見る風景は父が見たであろう風景とはすっかり変わっているとの思いから、父が見たに違いない青い海と真っ赤な夕焼けだけをビデオにおさめてきました。それにしましても、詳細な戦記の記述に敬服します。写真は私が所有している[The Battles of Kwajalein and Roi-Namur],Bell TelephoneLaboratoriesのものと違う生々しいものもあります。私どもは、玉砕というからには生存者はいないと思っておりましたが、記述されているとおり生存者がいたのであり、私所有の上記資料では200人以上が捕虜になり、うち127人が朝鮮人労働者であったと記されています。
Commented by iyasaca at 2010-04-14 00:08
十楽人さま。米軍の特別な配慮のお話をうかがいまして、インパール作戦犠牲者に対する英印政府と日本政府の姿勢の違いを思い出しました。一方は最後の戦いの舞台となった丘全体を墓地として、今でも綺麗に管理しているのに対し、日本は自前では何もせず、近隣の村の村長さんの好意による碑が立っているだけなのです。

クエゼリンに鳥居と慰霊碑があることも初めて知りました。また映画、写真についての情報もありがとうございます。何も知らずにマーシャルに行けば、美しい島ですが、玉砕や核実験場としての歴史を少しでも知れば景色が変わって見えます。そのような意味でマーシャルは、私にとって忘れられない場所であります。
Commented by 十楽人 at 2010-04-14 20:54 x
再度のコメント、拝読しました。私は、石橋湛山氏の(子息)ことに触れたことから思い起こし、今、石橋湛山著作集「大日本主義との闘争」鴨武彦編集と「戦う石橋湛山」半藤一利著を再読しております。石橋は満州進出以前から、そしてその後も局面、局面で日本の膨張主義に一貫して反対し続けました。英国に代わって世界を主導するようになったアメリカと敵対することは断じて避けるべき、と繰り返し訴えています。その石橋の子息がなぜアメリカと戦う軍人になったのか、疑問を感じていましたが、ネットで調べたところ、学徒動員での招集によるもののようで、納得?したところです。息子の死に際して、氏は、「私は、かねて自由主義者であるために軍部から迫害を受け、(中略)その私が今やひとりの愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」と悲痛な思いを語っています。
Commented by iyasaca at 2010-04-16 23:53
十楽人さま。石橋湛山はまさに「思想」と言える言論を一貫して発し続けた稀有なる人物であると認識しております。かつて中落合の氏の旧宅前をよく通る時期があったことが関心を抱いた契機です。系図を見ると河野太郎代議士ともつながっているのを知りました。(正しいかどうかは別にして筋の通った(=過激?)スタイルは隔世で遺伝していくものなのでしょうか。
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