勝手に僻地散歩



マーシャル諸島にいってみた その2

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マーシャル諸島共和国は、213.1万k㎡という広大な海域に点在する29の環礁(楕円または円形に広がる珊瑚礁)、1,225の珊瑚礁から構成され、東側の列島はラタック(日の出)、西側はラリック(日の入り)と呼ばれている。島の海抜は2-3mほど。最も高いところでも海抜10m(この最高地点はLikiepにある)でしかない。首都のあるマジュロ環礁の8割は海抜1メートル以下である。

わずか181.3k㎡しかない陸地に5万2338人(2007年マーシャル政府統計局)が住んでいる。この広さはよく霞ヶ浦とほぼ等しいとよく表現されるが、東京に住んでいる人にとっては、東京のベイエリアに東西に広がる江戸川区、江東区、中央区、港区、品川区、大田区を合わせた面積とほぼ等しいと言った方がイメージが沸きやすいだろう。意外と広い。人口の約半数にあたる2万4,000人あまりがマジュロに居住している。

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1980年の人口が30,873人というから近年の人口増は著しいと言えるが、人口密度(1平方キロあたりの人口)で言えば1平方キロあたり288.6人にすぎない。これは千葉県君津市ほどの人口密度である。人口密度を倍にすると三重県伊勢市にほぼ等しく、3倍にしても北海道釧路市ほどである。先ほどの東京の例をここでも引けば、23区の人口密度は一番低い江東区でも1万1000人で中野区に至っては2万人を超えている。したがって、その40分の1ほどである288.6という人口密度は、かなりのどかであることが分かるだろう。ちなみに人口の4割が15歳以下である。

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-先史時代と身分制度-
考古学調査によると、マーシャルに人が渡ってきたのは、2,000年ほど前のことであると言われている。現在に伝わる外洋航海も可能であるマーシャル・カヌーを見れば、マーシャルの先人たちが、高い操船技術の担い手であったことが分かる。しかしマーシャル語には文字がなく、その歴史は深い闇に閉ざされている。その長い先史時代にマーシャルの小さな社会にも身分制度が形成された。そしてこの身分制度はマーシャルで稀少である土地の使用とも深く結びついている。

社会の最上級の階層には土地の所有、食物の分配、紛争解決に絶対の権限を持つイロウジ(酋長)が君臨し、その下に土地の管理、そのた日常業務を遂行するアラップ、そして最下層に農業、漁業、公共工事に勤しむ労働者たるリジェラバルがある。母系社会であり、身分と財産は母から娘へと受け継がれる。この古くからの社会秩序は、現在においても強い力を持っており、大統領といえども酋長の威光に逆らうことはできない。例えば島のどこかで建物を建てる場合、政府の認可はもちろん、その土地を使用しているリジェロバルの代表者の許諾、土地管理者であるアラップの承諾、そしてイロウジの承認が必要なのである。この枠組みを踏み外せば、学校でも商店でも教会でも閉鎖に追い込まれる。この伝統的な政治社会制度は、圧倒的な影響力を持つ酋長からなる枢密院のような大統領諮問機関という形で制度化されている。

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-マーシャル諸島の「発見」-
マーシャル諸島が初めて文献に登場するのは、スペイン人アルバロ・デ・サーベドラが上陸した1528年のことである。(マーシャル諸島政府観光局の資料によると、その2年前にも寄港の記録があるようだが)その後もスペイン船によるエニウェトク(Enewetak)、ビキニ(Bikini)、ウォッジェ(Wotje)、クェゼリン(Kwajalein)、ウジェラング(Ujelang)、リブ(Lib)、メジット(Mejit)などの環礁への上陸記録が残っている。最初の記録から16世紀の間に、少なくとも7隻のスペイン船がマーシャルに寄港している。これらは立ち寄りというに等しいほどの短い寄航であったようで、次の訪問は17世紀末に入るまで記録に残されていない。

<参考>スペイン船寄航の記録
1526年 サンタ・ヴィクトリア
1529年 フロリダ
1543年 サンティアゴ
1565年 サン・ペドロ
1566年 サン・チョロニモ
1568年 ロス・レヨス、トドス・サントス
(マーシャル諸島政府観光局日本事務局資料「マーシャル諸島紹介リーフレット」より)

-英国、ロシアによるマーシャルの調査-
スペインの次にマーシャルに登場するのは英国である。1788年東インド会社は、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ港に寄港していた英国のジョン・マーシャル大佐とトーマス・ギルバート大佐に対し、茶の輸送のため、広東への回航を指示するとともに、周辺海域の調査も依頼した。二人はスカーボロー号(Scarborough)、シャルロッテ号(Charlotte)でマーシャルの環礁周辺に広がる海域(アルノ(Arno)、マジュロ(Majuro)、アウル(Aur)、マロエラップ(Maloelap)、ウォッジェ、 エリクブ(Erikub)、アイルック(Ailuk.)の測量を行っている。名前を見れば分かるが、彼らは自分たちの名前を珊瑚礁の島々につけている。英国人の訪問はさらに続き、1797年には英国船ブリタニア(Brittania)によるナム(Namu)環礁への寄航が記録に残っている。また1803年にはロラッグ(Rollag)がアイリングラップ(Ailinlaplap)に、そして1809年にはエリザベス(Elizabeth)がジャルート(Jaluit)を訪問しているとの記録が残っている。

ロシアの登場は19世紀に入ってからであるがマーシャルに対する貴重な貢献をしている。1816年にオットー・フォン・コツビュー(Otto von Kotzebue)大佐(実際にはロシア皇帝の命を受けたエストニア系ドイツ人)がルーリック号(Rurik)で訪問した。コツビュー大佐はマーシャル(ウォッジェ、マロエラップ、アウル)で初めて民族学誌的調査を行った。ルーリック号には、芸術家のルドウィグ・コーリス(Ludwig Choris)、博物学者のアデルベルト・フォン・チャミッソ(Adelbert von Chammisso)が同乗していた。彼らは詳細な水路測量、植物学、民族誌の調査を行っている。マーシャルの伝統的生活を描いたコリスのリトグラフは現在ホノルルのビショップ゚博物館で目にすることができる。

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-米国の登場と宣教師による布教-
19世紀には米国も姿を現すようになる。最初の記録は、1828年における米国船グローブの寄航である。簡単に言うと船内で問題が発生し、米国人の船員がミリ環礁においてけぼりにされたのである。この二人は後に米国海軍に救出される。

しかしマーシャルの社会に大きな影響を及ぼすのは、1857年の宣教師上陸である。マーシャル諸島の南端であるエボン環礁(Ebon)に上陸した米国外国伝道教会(American Board of Commissioners for Foreign Missions;ABCFDM)の宣教師は、19世紀末までに人が住む環礁ほとんどに教会を建設した。現在のマーシャル人のほとんどがプロテスタント(会衆派教会制の信徒、神の議会、バプテスト、安息日再臨派)であるという歴史はここに始まっている。敬虔な信徒も多く、現在も日曜日は酒の販売が禁止されている。
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by iyasaca | 2009-05-09 22:27 | マーシャル諸島共和国 | Comments(0)
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